それはまた別の話として、単に現状認識として、好むと好まざるとにかかわらず、先進国に住む人の多くは第三次産業につかざるを得ない。多くはサービス業になるでしょう。
サービス業に勤めるほとんどの人にとって、勉強とは、本を読むことになる。なんとなれば、サービス業というのはコミュニケートが武器だから。言葉によって人を、人の感情を、人の態度を、動かすことだから。「サービス」というのは、究極的には、言葉を鍛えることです。
〈勉強〉とは自分の小ささを知り謙虚になること
身もふたもないことですが、〈勉強〉をすれば「得」をしますよということです。社会人になっても自らに〈勉強〉を課している人は、極端に少ないです。少ないということは、市場経済においては価値を生むことです。「得」をするためには、人がしていないことをしなければならない。
しかし不思議なことに、〈勉強〉には「徳」もあるんです。勉強をしていると、いかに自分がつまらないものか、よく分かる。自分の考えなんて大昔の人がとっくに考えている。自分の悩み―それが恋の悩みであろうと名誉欲であろうと金銭欲であろうと―なんて、シェイクスピアが全部書いている。あるいは紫式部が全部見通している。そういうことが分かってきます。
たいしたやつじゃないんです、「自分」なんて。勉強の「徳」はそこです。
自分なんかたいしたことない。でも、隣のあいつも、テレビやSNSで声の大きいあの男も、ベストセラーを連発してそうなあのおっさんも、みんな同じです。たいしたやつじゃない。小さい。そういうことが分かるのも、勉強のおかげです。
自分なんか小さい。卑しい。それどころか、生まれながらの罪人だ。そう知るからこそでしょう、他人にやさしくできるのは。道徳や修身の時間に教えられるから、親切心をもつんじゃない。勉強するから、世界の広さ、宇宙の無限を知るからこそ、人に親切になれる。