一橋大学社会学部へ進むと、子どものころから足が速かったので陸上部に入り、200メートル競走を続けた。就職期は第1次石油危機後の不況で、男女雇用機会均等法ができる前。希望した新聞社は女性をほとんど採ってなく、出版社も採用がない。ある出版社で紹介された企業の社内報編集者に採用されたが、一緒に仕事をした人間と合わずに2年で辞める。父が体調を崩したこともあって、帰郷した。

大学で教える身へ勉強会や討論会での「出会い」が決めた道

 3年たったころ再び東京へ。大学の先輩が紹介してくれた生命保険文化センターの嘱託研究員を、約12年やる。生き方を左右する「出会い」は、ここにもあった。勉強会やテレビの討論会へ出て知己を得た大阪大学の蝋山昌一名誉教授や本間正明教授が、企業の寄付で経済の講座が始まるときに「教えてみないか」と声をかけてくれた。93年から3年間、客員助教授として「リスクと情報の経済学」の講義をした。次の政策研究大学院大学の前身、埼玉大学大学院の政策科学研究科の助教授も、阪大教授だった八田達夫氏の紹介で決まる。ここで「嘱託」「客員」の肩書が、終わった。

 内閣府へ出て大学教授へ戻った後も、「出会い」の力に動かされる。2006年夏、諮問会議の民間委員も務めた牛尾治朗・元経済同友会代表幹事から電話があり、「あなたに民間委員になってほしいという話がある」と言われた。牛尾氏は小泉首相を支援する経済人で、諮問会議はとても大事だと思う場。「受けよう」と、決めた。すると小泉首相が9月に退任し、官房長官だった安倍晋三氏が後を継ぐ動きが始まる。そこで牛尾氏に会うと、「おい、もっと大きいほうがきたぞ」と言う。

 諮問会議も含めた経済財政の担当相就任だ。「それは、とんでもない」と、断り続けた。でも、1時間ほど説得を受けていたら、「やらせてみようと言ってくれる人がいるなら、まあ、やってもいいかな」との思いが湧いてくる。結局、3度、諮問会議の担当大臣を務めた。桜島の「ど〜ん」という姿がくれた「何とかなるだろう」の気持ちが生んだ『源流』。そこからの流れが、流域を広げていく。

 いま、大学で春と秋の学期に経済政策の授業を持っている。学生の多くが発展途上国からきた留学生で、学んだことで帰国後にまだ豊かではない母国の人々のために貢献しよう、と燃えている。学長は授業をしなくてもいいのだが、彼や彼女たちを応援したいし、少しでも役に立ちたい。やはり「For Others」だ。10代であんなに素晴らしい言葉に出会えば、『源流』の勢いは、夢だった宇宙へも届きそうだ。(ジャーナリスト・街風隆雄)

AERA 2024年6月24日号

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