外国留学の経験もなく英語力は十分でない。でも、相手は留学生。英語の講義が必須で、睡眠を削って考える。準備はたいへんだが、教えるのが好きなのだ(写真:狩野喜彦)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年 6月24日号より。

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 2002年4月に政策研究大学院大学の教授を退職し、内閣府の参事官になった。首相の下で日本の経済政策の在り方を議論し、財政の基本方針を首相が決断する経済財政諮問会議の運営を担う課長級の職だ。話を聞いたときは「官僚は、自分に向いていない」と思い、断った。

 東京・六本木にある大学へ戻る道で「学長から断っていただこう」と思っていたが、ふと、別の思いが湧いてくる。

「面白いかもしれない。やってみても、いいかな」

 子どものころ、鹿児島市の自宅からも通った学校からもみえた桜島。薩摩半島と大隅半島に囲まれた錦江湾に、ど〜ん、と大きく据えた姿をみて、大らかな気持ちをもらい、どんなことにも「何とかなる」と思ってきた。このときも、そうだった。

初めて得た「定職」は離れ難かったものの強い好奇心が覆す

 01年4月に誕生した小泉純一郎内閣は諮問会議を活用し、長らく政策分野ごとに幅を利かす「族議員」が仕切ってきた経済政策を、しがらみのない決断で一新した。側からみていて賛同し、拍手を送っていた。

 誘われたのは、その諮問会議に民間から選出される4人の委員が提出する提言・提案を、一緒にまとめる黒衣役。でも、20代後半から「嘱託」「客員」という名が付く職が続いたのが、6年前に初めて大学教師という「定職」を得た。安定した収入と自由に発言できる身に、満足感は大きい。しかも、助教授から教授に昇格してまだ1年。学生たちに経済学を教えながら自らも学ぶ、という恵まれた状況から、離れ難かった。

 だが、好奇心の強さと、桜島の姿に育まれた「何とかなる」という大田弘子さんの『源流』が、それを覆す。

 内閣府には、約3年半いた。担当大臣は一橋大学の先輩で、小泉流の民間人登用で就任した竹中平蔵氏。上司の局長級の政策統括官も局次長級の審議官も民間から起用されていたから、風通しがいい。1年目は提言・提案の原案を手に、関係する省庁や経済団体を巡って賛意を得ていき、与党の有力政治家たちに会って、「族議員」に怒鳴られても粘り強く説明する。「正しい」と思ったことが実現するなら、少しも苦ではない。

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