旧岩崎家住宅/所在地:台東区池之端1-3-45 三菱財閥の第3代社長・岩崎久彌の住まいとして建設。1896年竣工。最盛期には約1万5千坪の敷地に20棟の和館と1棟の洋館が並んだ。洋館はイギリス人建築家、コンドルの傑作と名高い(写真:山内貴範)
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 時代の流れとともに失われた名建築は数多い。それでも日本の建築史を語るうえで欠かせない傑作が残っている東京。東京の国宝・重要文化財建築を網羅した『TOKYO名建築案内』(朝日新聞出版)の著者、山内貴範さんに、見学におすすめな住宅建築を紹介してもらった。AERA 2024年6月24日号より。

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 目まぐるしく流行が変化し、常に再開発が行われている東京は、地方都市と比べるとどうしても古い建築が残りにくい土地といわれる。明治維新の後も、関東大震災や東京大空襲があった。そして戦後の高度経済成長期の開発などの影響もあって、三菱一号館や帝国ホテルのライト館など、その過程で失われた名建築は数多い。それでも、日本の建築史を語るうえで欠かせない傑作が都内各地に残っている。

生活の主体は和館

 見学におすすめなのが、東京の住宅建築だ。当代一流の建築家が設計し、しかも、最先端の流行を取り入れた傑作が多いためである。公共性をもつ官公庁などとは異なり、自由度の高い住宅は建築家の作風を存分に楽しめるだけでなく、施主の性格や職業についても深掘りできる点が面白い。

 明治時代に入ると、住宅は西洋文化の影響を大きく受けるようになり、富裕層の間で従来の和館に隣接して洋館を設ける和洋併置式住宅が流行した。1896(明治29)年に建てられた旧岩崎家住宅は、洋館と大広間(和館)が連結している。洋館で暮らしていたと思われがちだが、岩崎家に限らず、明治時代の富裕層のほとんどは和館で生活していた。洋館は賓客をもてなすためのパーティーなどが行われ、滞在の機能をもつVIPルームのような扱いであった。

和館でのおもてなし

 なぜ、岩崎家は洋館での暮らしになじめなかったのか。その要因の一つが、邸宅内で靴を履いたまま過ごす、西洋のスタイルに違和感を抱いたためといわれる。旧岩崎家住宅は1969(昭和44)年に和館の大部分が取り壊されてしまったため、現在では洋館がメインで、和館がサブのように思えてしまう。しかし、繰り返すようだが、明治時代の人々の生活の中心はあくまでも和館にあったのだ。

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