哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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大阪の道頓堀にグリコの看板がある。その下を「グリ下」と呼ぶ(最近知った)。家にも学校にも居場所がない子どもたちが集まってくる。親による虐待や経済的な困難などの問題を抱えた「寄る辺ない子どもたち」である。彼らは犯罪に巻き込まれたり、夜の仕事に誘われたり、債務を負ったりするリスクにさらされる。
ここで若者や子どもたちを救援する活動をしている今井紀明さん(認定NPO法人D×P理事長)と話をする機会があった。子どもたちに寝る場所と食べ物を提供し、医療的なケアが必要な場合にはそれも提供するのが彼らの仕事である。
同じような活動は日本中で自然発生的・同時多発的に始まっている。「こういう活動をどう評価しますか?」と今井さんに訊かれたので、日本が再び相互支援ネットワークがなければ生きてゆけない社会になったということだと思うとお答えした。
私は人々が助け合って生きていた時代を記憶している。1950年代の日本には相互支援のネットワークがたしかに存在した。みんな貧しかったし、行政が十分に機能していなかったから防犯も防災も公衆衛生も地域共同体の仕事だった。親たちは生きるための糧を稼ぐのに忙しく、小さい子の面倒は年長の子どもが見た。
でも、高度成長期に入り、みんな豊かになるとこの「貧者の共同体」は割とあっけなく崩壊した。郊外に家を買った人たちは黙って町内を出てゆき、何年間も実の兄弟姉妹のように親しく暮らしていた町内の子どもたちの消息を私は誰一人として今は知らない。
それから長い間「一人でも生きてゆける時代」が続いた。それだけ日本社会は豊かで安全だったのである。でも、また日本は貧しくなり、行政の手が届かず、小さい子どもたちの面倒を年長の子どもが見なければならない時代がやってきた。そのとき自分を「子どもの世話をする年長者」だと感じる人たちが出てきた。橋本治はそういう人を「原っぱのお兄ちゃん」と呼んでいた。サリンジャーは「ライ麦畑のキャッチャー」と呼んでいた。そういう「善き人」はいつの時代にも必ずいる。それを知って私は少しだけ安堵した。
※AERA 2024年6月24日号