父は寂聴さんとつきあっているときも、さらに別の女の人ともつきあっていたそうです。週末になると父がどこかへ出かけていって、翌日の昼過ぎに帰ってくるというのが私の家の日常で、そんなものだって私も妹も思っていた。両親の仲もよかったんですよね。そういう家庭で育ったせいで、幸せとか不幸は相対的ではなく絶対的なものだと私は考えるようになった。それは小説家としては、いいことだと思っています。

 ああ、父の娘だな、と感じるのは、やはり小説を書いているとき。特に、これはという展開を思いついたときですね。父は自分の経歴も作ってしまったくらい(笑)、お話を作るのがうまかったから。

 そもそも私が小説家になったのも、父の目論見のような気がします。家には子どもの本がいっぱいあったんですが、それは父が編集者に送るように頼んでいたからなんです。おかげで小さい頃からとにかくたくさん本を読みましたし、最初は絵本の絵を描く人になりたいと思っていたのが、いつのまにか真似をしながらお話を書くようになっていました。

 それに、父には「人は何かしらやらなきゃいけない」と、小さな頃からずっと言われていました。それが唯一にして最大の教育だった。当時、女の子が一般的に言われていたような「いいお婿さんを見つけて早く孫を見せてくれ」というようなことは、絶対に言わなかった。むしろ、それがいちばんつまらない人生だって教えられたんです。自分の好きなことを見つけて一生懸命やれば、お金持ちになんかならなくていい、偉くなんかならなくていい、って。

 だから、私が小説を書きはじめたとき、父は本当に喜んでくれました。読んでいないような顔をしながら、いいところを見つけては褒めてくれた。けなすと私が書くのをやめるんじゃないかと思ったのかもしれません(笑)。デビューが決まったときなど、狂喜乱舞という言葉がふさわしい喜びようでした。私のインタビューが掲載された新聞や雑誌をすべてスクラップしたり……。当時はまだ自分に小説家として生きるという覚悟がなかったので、プレッシャーのほうが大きかったけれど、いま思えば、もっと父と小説の話をしておけばよかった。昔よりも父の小説の良さがわかるようになったいま、もしも生きていてくれたら、もっといろいろ話ができたのにと思います。自分はすべての賞を拒否するなんて言っていたけれど、実際はミーハーだったから、私の受賞をものすごく喜んでくれたんじゃないかな。

 父を思い出すとき、真っ先に浮かぶのは書斎にいる背中。ご飯できたから呼んできて、と母に言われて書斎を覗くと、書きかけの小説のフレーズをブツブツと口にしながら、うんわかった、って言う姿です。でも、ご飯が冷めるのが絶対に許せない人だったから、すぐに執筆を切り上げてダイニングに降りてきた。その点でも、私は父の娘だなと思います。私が、穏やかな夫と初めて泣いて大喧嘩をしたのは、天ぷらが冷たくなっちゃう、という理由でしたから(笑)。

週刊朝日 2018年6月22日号に掲載した記事に加筆

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