リクエスト制が導入された現在では、判定をめぐって監督が猛抗議するシーンもあまり見られなくなったが、過去には監督が放棄試合を覚悟で選手を引き揚げさせる騒動も少なくなかった。
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放棄試合成立寸前まで騒ぎが拡大したのが、1967年9月20日の中日対巨人だ。
7回、2点リードの巨人は無死一塁で柴田勲が左翼線に安打を放ち、二塁を狙ったが、間に合わないと見るや、一塁へUターン。レフトから三塁に送球されたボールは、一塁手の江藤慎一に転送され、円城寺満一塁塁審はアウトを宣告した。ノータッチなのにアウトにされた柴田は激高して円城寺塁審を突き飛ばした。だが、荒川博、牧野茂両コーチが抗議すると、判定はセーフに覆った。
すると、今度は中日・西沢道夫監督がベンチを飛び出し、円城寺塁審を小突いて猛抗議。同塁審が自らの誤審を認め、セーフに訂正したことを説明したが、中日側は納得せず、スタンドから興奮した数十人のファンが乱入。警官隊が出動する騒ぎに発展した。
審判団は協議の末、暴行した柴田と西沢監督に退場を宣告して試合再開を図ったが、これが両チームのさらなる怒りを買い、事態は泥沼化。その後、巨人側は柴田の退場を了承したが、中日側は西沢監督の退場に納得できず、「同じく暴力を振るった荒川コーチも退場させるべきだ」として、選手を引き揚げさせた。
だが、試合を放棄して帰ろうとする選手たちに、退場処分を受けた西沢監督が「ここは悔しいが、やってくれ」と声をかけると、当事者でもある江藤が「仕方ない。みんないくぞ」と号令。全員が守備位置に戻り、最悪の事態は寸前回避された。
南海時代の野村克也監督があわや放棄試合という猛抗議を繰り広げたのが、1972年5月23日の西鉄戦だ。
3対2とリードした西鉄は7回2死一、二塁で大田卓司が三塁線に打ち返し、打球は富田勝のグラブをかすめてファウルグラウンド上に転がった。
だが、吉田正雄三塁塁審は判断に迷い、ジャッジできない。直後、後方で見ていた寺本勇左翼線審がファウルのジェスチャーをすると、吉田塁審もファウルをジャッジした。