三つ目は、社長が「痛みをなくす薬」にこだわった。社長は営業と経理・財務などの分野を歩み、創薬の経験はないが、着眼がすごい。「癌(がん)を治してあげようというのも薬屋らしいが、身近な人たちが薬に何を望むかと考えると、痛いのをなくすのはみんなが喜ぶ。痛みを持つ人は、結構いるぞ」と言った。なるほど、と頷く。
絞り込んだ三つの領域は、いずれも困っている人が多い症状を和らげる薬。「世の中には困っている人がいるのだから、それは役に立つでしょう」。中学生のころから、何かの選択に迷ったとき、母が言ってくれた言葉が重なった。本部長就任時から20年、これまでに三つに絞った領域から、九つの新薬を送り出す。その一つが、2022年に発売した新型コロナウイルス治療の飲み薬「ゾコーバ」だ。
母と暮らしたのは宮城県立仙台一高を出て、東大理科II類へ入学するまでの18年余りだけ。1959年12月に生まれ、父母と姉との4人家族。両親は好きなようにさせてくれ、進路などについて口を挟まない。ただ、母との日ごろの会話から「医者になって、世の中の役に立ってほしい」と願っていることは、分かっていた。でも、血をみるのが嫌で、医学部でなく、理科II類で薬学部を選んだ。
米のカプセル工場へ「左遷だ」と不満も完全燃焼へ立て直す
もちろん、何もかもが順調にきたわけではない。94年6月からの2度目の米国勤務は、薬ではなく、薬を飲みやすくするためのカプセル工場の立ち上げへの出向。しかも、販売の担当だった。創薬の本流を歩んで、ちょっといい気になっていた身には「何でカプセルなのか、左遷だ」と不満だった。
何度も「会社を辞めよう」と思う。カプセルは消耗品で、製造技術は60年前に確立され、あとは「薄く、軟らかくつくる」という匠の世界。やはり新薬を開発し、販売する仕事に携わりたい。他社から、転職の誘いがきた。だが、「人生をどこで完全燃焼させるかは自分次第」と、気持ちを立て直す。
08年4月に社長になって17年目。「ちょっと疲れたな」と言っても、部下たちも取引先の人も、笑って頷かない。確かに創薬の仕事は「冥利」に尽き、なかなかやめられない。リーマンショックによる経済の変調も、コロナ禍による行動の萎縮も、「冥利」の思いで乗り越えた。
新人時代に糖尿病の新薬の販売承認へこぎつけた中央研究所は、もうない。毎日のように泊まり込み、寝不足で昼食後につい寝込んでしまったトイレは、本当にあったのだろうか、と思う。
でも、確実に存在し続けているものもある。創薬への意欲と、母の「困っている人がいるのだから、それは役に立つでしょう」の言葉に始まる『源流』からの流れだ。(ジャーナリスト・街風隆雄)
※AERA 2024年4月29日-5月6日合併号