本部長になったころの研究所は、社内で「塩野義大学」と呼ばれていた。ものづくりへの意欲は乏しく、経営感覚に欠け、学術話が好きな研究者が多かった。研究者たちには居心地のいい世界だっただろうが、そこへ改革を導入した。
87年8月、企画部から、入社6年目にして米ニューヨーク事務所の駐在員へ出た。開発した新薬のもとになる化合物の特許を、米国の製薬会社へ売り込む「導出」のためだ。このとき、貴重な経験をした。
現地の面々の会議に出て、話を黙って聞いていたら「オブザーバーなどというのは、会議であり得ない。発言しないなら、今度はこないでくれ」と言われた。日本では会議でひとことも言わない人がいっぱいいるが、「それなら出ていけ」という文化。すごく好きになり、「今度は、このひとことだけでも言ってやる」と思って出て、滑らかとは言えない英語で発言した。すると、自分の存在意義をみんなが認めてくれて、「ビジネスは、こうやるのだ」と頷く。
研究開発の改革でも、研究員たちに発言を求めた。議論に自信があるのなら、会議に営業の人間も呼び、聞いてもらえばいい。研究員が黙っていたら「こちらの言うことにノーなら、批判だけでなく、代替案を出してくれ」と促す。研究所の跡を再訪してそんなことを話した後、「コ」の字型だった建物を思い浮かべたのか、じっとマンションの中庭をみていた。
社長と決めた残す研究開発領域は、まず感染症で合意した。世界中で感染症向けの抗生物質の価格が安くなるなか、各社が「開発はやめた」としていた。そこで塩野義も撤退したら、日本で手がける製薬会社がなくなってしまう。社長に「成功するかどうか分かりませんが、これは頑固に残しましょう」と言うと、賛成してくれた。
社長がこだわった「痛みをなくす薬」は研究開発を続行
前年に、塩野義が開発して特許を取りながら、世界での販売力が足りないとして、英国企業に全世界での製造・販売権を渡していた代謝性疾患の高コレステロール血症の治療薬「クレストール」の国内販売権を、特命を担って取り戻していた。そのクレストールを「いまから売るぞ」というときに、代謝性疾患の研究開発をやめるのは、ある種の矛盾で、この領域も続ける。