しかし、賞レースの現場で勝負を捨てている芸人など1人もいない。全員が全員、最初から最後まで本気で勝つつもりで戦っている。2009年の『M-1』で「チンポジ」という下ネタまじりの漫才を披露して歴史的な大失速を見せた笑い飯ですら、勝つつもりでそれを演じていたという。

 結局のところ、賞レースのネタ選びに関する言説は、すべてが結果論でしかない。結果として高評価が得られなかったからこそ、あとから振り返ってその判断は失敗だとされるのであり、初めからその失敗が予測できていた人はいない。予測できていたように見えたとしても、実際にそれ以外のネタをやっていたらどうだったのか、というのは誰にもわからないのだ。

さや香だけは失敗ではないと

 ネタ選びを失敗したと認めている芸人が多い中で、さや香の新山だけは、2023年の『M-1』で2本目に演じた「見せ算」のネタを気に入っていて、今でもその選択が悪いとは思っていないという態度だった。つまり、彼の中ではこれは失敗ではないのだ。

 商品開発にはマーケットインとプロダクトアウトという2つの考え方がある。単純に言うと、マーケットインとは市場に求められているものを提供することであり、プロダクトアウトとは作りたいものを作るということだ。賞レースで勝つためには、観客から笑いを取り、審査員から評価を受けないといけないので、基本的にはマーケットインの考え方が必要となる。

 しかし、芸人が表現者でもある以上、プロダクトアウトのアプローチを完全に否定することもできない。さや香の新山はまさにこのタイプだ。彼は、自分が気に入っているネタで勝つことにこだわり、そして、敗れた。それが間違いだったかどうかは誰にもわからない。

 賞レースのネタ選びは、単純なようで奥が深い。すべてが結果論でしか語れないものだからこそ、その結果だけを追い求めて芸人たちは悩み抜くことになるのである。

(お笑い評論家・ラリー遠田)

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ラリー遠田

ラリー遠田

ラリー遠田(らりー・とおだ)/作家・お笑い評論家。お笑いやテレビに関する評論、執筆、イベント企画などを手掛ける。『イロモンガール』(白泉社)の漫画原作、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと「めちゃイケ」の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』 (イースト新書)など著書多数。近著は『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)。http://owa-writer.com/

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