音楽家・坂本龍一さん/1952年、東京都生まれ。映画「母と暮せば」(山田洋次監督)の音楽担当。東北ユースオーケストラの代表理事・監督も務める(撮影/写真部・松永卓也)
音楽家・坂本龍一さん/1952年、東京都生まれ。映画「母と暮せば」(山田洋次監督)の音楽担当。東北ユースオーケストラの代表理事・監督も務める(撮影/写真部・松永卓也)
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  音楽家でアーティストの坂本龍一さんが3月28日、死去した。所属事務所が4月2日に発表した。71歳だった。

【写真】坂本龍一さんと高橋源一郎さんが初めて対談した

 坂本さんは、2014年に中咽頭がんを患っていることを発表。コンサート活動の中止を強いられ、療養生活を送った。その後、20年6月には直腸がんが発覚した。昨年12月にはオンラインで全世界にピアノコンサートを配信。公の場に姿を見せた最後の姿になった。所属事務所によると、がんの治療を受けながらも、体調の良い日は自宅内のスタジオで創作活動を続け、最期まで音楽とともに過ごしたという。

 音楽家として活躍する一方で、政治や社会への問題も提起し続けた。今年2月には、明治神宮外苑地区の再開発の見直しを求める手紙を東京都の小池百合子知事らに送っていたという。

 芸術の再前衛を走りながらも、なぜ発言と行動を続けるのか。2016年にアエラ誌上で実施した同世代の作家で同じく発言を続ける作家の高橋源一郎さんとの対談では、「声をあげ続けることの大切さ」を語っていた。安保法制が施行され、社会が揺れていた当時、坂本さんを突き動かした希望とは、なんだったのか。当時の記事を再掲する。

*  *  * 

高橋源一郎:今日はとてもうれしいです。坂本さんとはほぼ同世代ですけど、きちんとお話しするのはこれが初めてですね。

坂本龍一:そうですね。僕が1学年下かな。

高橋:僕は高校生のときから学生運動に参加していましたが、1971年から72年にかけての連合赤軍(※1)事件以降、日本から反体制的な政治運動をやろうというマインドがほとんど見られなくなりました。今年、ほんとうに久しぶりにSEALDsのデモに参加したんですが、40年以上も前の忘れ物を取りに行った気持ちがしました。そういう意味では、いまの日本人としては、というかミュージシャンとしては珍しく、坂本さんはずいぶん前からデモに参加していて。

■何にも似ていない運動

坂本:それでも2000年ぐらいからですよ。僕の場合、藝大(東京藝術大学)の音楽学部に入ったのが70年で、その頃、ちょうど勉強していた西洋音楽が一種のデッドエンドを迎えるんです。大学に入っても勉強すべきモデルがない状態で、ポンと音楽的に放り出されてしまった。で、その当時から、自分が義憤を感じたり、疑問を感じたりしている政治的問題と音楽とがどう結びついているのかを考えていたけど、答えが出ないまま、今まできてしまった感じがある。

高橋:SEALDsの運動がおもしろいなと思うのは、特定の何かをサンプルにして運動を始めたわけではないことです。普通は何かに影響されたり、もっと言うとオルグされたりして始めるものなのに、40年以上、学生の政治運動らしいものがなかった。だから彼らは、ネットやユーチューブで、それこそ在特会(※2)からオキュパイ・ウォールストリート(※3)まで見て、いいとこどりをしている感じがしますね。そういういい意味で素人っぽい政治運動って過去にはほとんどなかったんじゃないでしょうか。

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当事者の方が参加できるようなデモのスタイルを見つけることは課題