そして一般に、会津には明治維新の官軍を快く思わない人が多い。
まあ、それはそうなるだろう。何しろ官軍に叩き潰された側である。ただ、これは単なる恨みつらみではない。先に述べた「信念を曲げない気質」からすれば、会津人にとって官軍の行動とは「噓に立脚した横暴」に他ならないのだ。
維新の英雄譚では常に幕府の腐敗が諸悪の根源とされ、体制を変えねば国が危うかったと唱えられている。が、少し詳しく学んでみると実相はずいぶん違うようだ。
まず、幕末の江戸幕府は機能不全を起こしてはいない。譜代大名の大物が要職を占めて外様を排除するという旧弊こそあれ、実に堅実かつ慎重に国の舵を取っていた。それが求心力を失ったのは、時の帝・孝明天皇の勅許を得ぬまま、日米修好通商条約に調印したからである。
往時の日本の国家体制から言えば、確かにそれは許されることではなかった。だが維新勢力の目的が「国を救うため」であるなら、幕府の行動もそれは同じなのである。条約を締結し、外国との間に明確なルールを設けなければ、日本は早々に攻め滅ぼされていたに違いない。
幕府親藩の会津はこうした事情、幕府が正しく尽力していたことを知っていた。ゆえに官軍の戦争行動は、言ってしまえば不当な蹂躙に等しいのだ。少なくとも戊辰戦争直後には、その意識が強かったはずである。
今作に於いては、これが主人公・虎太郎に渡米を決意させる一因となった。
然るにアメリカへ至れば、そこでは白人が先住民を蹂躙している。
この状況に於いて、虎太郎は何を思うだろう。会津人の気質がそれを許さないのではないか。白人に踏み付けられる先住民の姿を、官軍に踏み付けられた自身に重ねるのが自然である。
だったら虎太郎に、先住民側に立ってインディアン戦争で暴れてもらおう。アメリカ史の中で自由に動いてもらったら、どうなるだろうか――それがスタート地点となり、史実の上に虚構の活劇が展開されていった。
今作『虎と兎』は、西部劇に武士を放り込んだ、言わば「サムライ・ウェスタン」である。従来の拙著に比べてかなり「変なもの」と言えよう。しかし私の中では会心の一編だ。今作が自分の可能性を広げるものになって欲しいと、切に願っている。