警視庁公安部は2月27日、5事件に関与したとして、容疑者死亡のまま爆発物取締罰則違反と殺人未遂の両容疑で桐島聡容疑者を書類送検した。指名手配の解除通知を受け、写真の上には紙が貼られた=2024年2月27日、東京都中央区
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「最期は本名で迎えたい」と東アジア反日武装戦線「さそり」のメンバー・桐島聡であると明かし末期がんで死亡した男性について、警視庁公安部は桐島聡本人と特定したと発表した。東アジア反日武装戦線とは何だったのか。ノンフィクションライターの安田浩一が書く。AERA 2024年3月18日号より。

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 満月から2日ほど経ってはいたが、夜空に浮かんだそれは、まだ真円を保っていた。マグネシウムを思わせる青白い光が星影さえ霞ませる。

 1月28日の深夜だった。群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」に私はいた。すでに閉園時間をとっくに過ぎていたが、私は公園の中にとどまって月を見上げていた。寒さに震えながら、月明かりを受けた追悼碑のそばで、「最後の時間」を過ごしたかった。

 同公園内に建てられた朝鮮人労働者追悼碑は、この日が“見納め”だった。翌日から公園は閉鎖され、追悼碑は撤去されることになっていた。

 戦時中に労務動員された朝鮮人犠牲者を悼む目的で追悼碑が設置されたのは2004年。県議会が全会一致で建立を決めたものだ。だが設置から10年が経過したころ、県は追悼碑が「政治目的」で利用されているとし、設置条件違反を理由に、管理者の市民団体に撤去を要請。9年間にもわたって裁判闘争がおこなわれ、結果的に県が勝訴し、代執行による撤去が決まった。

 この日、追悼碑の撤去を惜しむ人たちが全国から集まり、それぞれが花を手向けて“最後の日”を過ごした。ここに“乱入”したのが、右翼団体だった。隊服、隊帽といった“正装”で現れた右翼団体のメンバーらは「売国奴、国賊」などと叫びながら集まった人々を威嚇した。だが、追悼のために集まった人の多くは、「うるせえなあ」と冷めた表情を見せるだけだった。挑発のつもりだったか、右翼の一人が大声をあげた。

「桐島~! 桐島はどうした! 左翼! 反日~!」

 まだその時、「桐島聡を名乗る人物」の出現に世間の一部は沸いていた。おそらく彼にとって「桐島」は、「左翼」を表す侮蔑語というか、ひとつの記号だったのだろう。

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 それにしても「反日」なる言葉のニュアンスもすっかり反転してしまった。他者を罵倒するためだけに用いられる「反日」を、それこそ桐島であれば、どう受け止めただろうか。人の気がなくなった深夜の公園で、私はそんなことをぼんやりと考えていた。同時に、過去の歴史を「なかったことにする」歴史否定の波を思った。

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