「私を含め多くは狭山(狭山事件をめぐる部落解放闘争)や三里塚(成田空港反対闘争)に流れた。桐島の場合は“寄せ場”だったんですね」
寄せ場──つまりは山谷、釜ヶ崎、寿町などにおける日雇い労働者の運動(悪徳手配師やヤクザ、警察との闘い)に飛び込んだのである。そして桐島は、そこで「日本帝国主義」という“真の敵”の姿を意識するのだった。実は、これが桐島をはじめ、後に東アジア反日武装戦線に合流する「さそり」のメンバーたちに共通するものだった。
「華青闘告発」の衝撃、死傷者を生まない行動
「後に反日武装戦線は、苛烈ともいうべき現場で闘う日雇い労働者だけを『唯一根底的に闘っている』存在として認めている。それは寄せ場から『やられたらやりかえせ』のスローガンを生み出した船本洲治の影響を強く受けているからです」
船本は広島大学を除籍後、寄せ場に飛び込んだ。そこで資本主義発展のために犠牲を強いられながらも、果敢に闘う日雇い労働者と出会い、こうした人たちこそが革命の主体だと訴えた。捨て身の労働運動は、新左翼運動に行き詰まりを感じていた者たちに奮起を促した。ちなみに船本は75年、米軍嘉手納基地前(沖縄県)で焼身自殺するが、遺書の中で反日武装戦線の運動を高く評価していた。
そしてもうひとつは「華青闘告発」だ。華青闘(華僑青年闘争委員会)とは在日中国人の若者たちによって結成された組織で、一時期、新左翼陣営の一翼を担った。しかし、新左翼党派の「差別性」を問題視した華青闘は、日本の運動圏に“絶縁”を叩きつける。
70年7月7日、日比谷野外音楽堂にて開催された集会で、華青闘の代表は各党派の面々を前にして、声を張り上げた。
「本日の集会に参加された抑圧民族としての日本の諸君!」「勝手気ままに連帯を言っても、われわれは信用できない。日本階級闘争のなかに、ついに被抑圧民族の問題は定着しなかったのだ」──この言葉に対する返答を、桐島ら後に反日武装戦線に合流する者たちは常に考えていた。学外に飛び出したことで、ようやく答えを見つける。それが、加害の歴史を踏まえて、日本=「日帝本国」と非妥協的に闘うことだった。逆説的に言えば、反日武装戦線ほど日本人、「日帝本国人」であることにこだわった者たちはいないだろう。桐島らはこれらを通して、日帝本国人から差別され、搾取される人々──アイヌ民族、沖縄出身者、在日コリアンと出会っていく。同時に日本人であるという「原罪」を強く意識するようになる。