ちなみに「東アジア反日武装戦線」というのはいわゆる党派ではない。「狼」「大地の牙」そして桐島が属した「さそり」の3グループがあり、基本的には個別に行動していた。「さそり」の他のメンバーも、寄せ場労働運動を経験した後、反日武装戦線の闘争に合流した。よって、三菱重工爆破事件を起こした「狼」とは別グループである。
民族問題研究者の太田昌国は、桐島が名乗り出たことを受けての集中連載の中でこう書いている。
「桐島は、1974年12月に結成された『さそり』に属していたのだから、同年8月に『狼』が行なった三菱の一件とはまったく関わり合いがなかった。『さそり』の思いはむしろ、死傷者を生まない時間帯に行動を設定することで、先行者が三菱で犯した失敗を批判的に克服しようとするところにあったことが、メンバーの証言で明かされている」(「潜伏49年で死去・桐島聡が属した『東アジア反日武装戦線』とは何だったのか」集中連載第1回、現代ビジネス、2024年2月26日)
韓国産業経済研究所爆破事件をはじめとする「さそり」が関わったとされる事件では一人の死者も出ていない。
三島由紀夫と斎藤和 「ついに逃げ切ったな」
三菱事件に衝撃を受けた者のひとりに、文筆家の平井玄がいる。
日本では稀な大規模な爆弾闘争、その犠牲となった死傷者の数。それは当時、早稲田大を除籍となり、実家のクリーニング店に「退却」していた平井にとってショックであったことは事実だが、彼の心を揺さぶったものは他にもあった。
「東アジアという地理的概念、そして反日という言葉。どちらもそれまでの左翼が持ちえたものではなかった。世界革命といった大風呂敷を広げるわけでもなく、自らの存在すら断罪したところに、なにか身体性ともいうべきものを感じたんです」
そしてもうひとつの衝撃が、逮捕時に青酸カリの入ったカプセルを飲み込んで自殺した斎藤和(のどか、「大地の牙」のメンバー)の存在である。
「死ぬのか、という驚き。こちら側にも三島由紀夫とは違う形で命をかけた者がいたのだという事実を突きつけられた。当時の私にとっては、お前はどうするのだという問いかけにも感じました」
それからしばらくして、平井は「退却」先の実家で働きながら、寄せ場の運動に吸い込まれていく。そこでの経験を通して、教条的な党派理論では吸収することができない、末端労働者とマイノリティーの息遣いに接していく。だからこそ平井は、斎藤和と違って建設労働者として50年間の潜伏生活を送った桐島の気持ちに共感するという。桐島の死を、平井は「ついに逃げ切ったな」という思いで受け止めた。
四国在住の滝石典子は80年代、反日武装戦線の裁判支援に奔走していた。理念や行動にすべて共感していたわけではない。ただ、世間からは「爆弾魔」と白眼視され、左翼陣営からも突き放されていた反日武装戦線の孤立が、見ていられなかった。
「日本は朝鮮戦争やベトナム戦争の犠牲の上で経済復興を成し遂げたにもかかわらず、アジアに経済進出し、公害や環境破壊などさらなる犠牲を強いた。反日武装戦線はそれに対する強い憤りがあったのではないか。私もその意味を考えたいとも思ったんです」
もともと爆弾闘争を仕掛けた武装グループは遠い存在だった。それでも反日武装戦線は「とてつもなく優しい人」だったからこそ過激な闘争に走ったのだと滝石は信じている。
ちなみに私自身は一連の事件のあらましを松下竜一の著作『狼煙を見よ』で知った。松下が同書を手がけるきっかけをつくったのは滝石だ。裁判支援の協力を求めて、会ったこともない松下の自宅を訪ねた。反日武装戦線について詳しく知らなかった松下は支援依頼に厳しい表情を浮かべて考え込むばかりだったが、しばらくしてから取材を始めた。それが松下の回答だった。
その松下もいまはいない。斎藤和、大道寺将司(「狼」)をはじめ、関係者の中には鬼籍に入った者も多い。そして桐島の死。
東アジア反日武装戦線を名乗って一連の事件を引き起こした者たちの実像と理念をとらえなおす時期に来ているのではないか。「原罪」を引き受ける者がほとんどいないいまだからこそ。(ノンフィクションライター・安田浩一)
※AERA 2024年3月18日号