翌日、公園は全面閉鎖され、追悼碑は重機で破壊された。
同じ日、桐島聡も息を引き取った。
桐島は1954年に広島県福山市で生まれた。県内の高校を卒業し、明治学院大に入学したのは72年だ。60年代後半、全国に波及した学園紛争、全共闘運動の熱気はすでにない。同年2月に連合赤軍による「あさま山荘事件」が起きたばかりでもある。“連赤ショック”も加わり、政治の季節は終焉を迎えつつあった。
「だが、明学は違った」
そう振り返るのは明学で桐島の同級生だった早川清(仮名)だ。
「まだ運動が盛り上がっていたんです。文科系サークルの連合体である文連会を中心に、学園民主化を掲げた運動を展開していました」
大学当局は運動弾圧のために暴力ガードマンを導入するなどしたことで学生の多くがそれに反発していた。さらに、長きにわたり大学当局の締め付けが厳しかった明学には自治会がなかった。むしろ、そのことによって早稲田や法政などの党派拠点校のように自治会主導権をめぐる内ゲバがなく、特定党派による一元支配も避けることもできた。ノンセクトが自由に運動できる環境にあった。“乗り遅れた”者でも参加できる解放区がそこにあったのだ。
「桐島と個人的な交流があったわけでもないし、彼が強い印象を残しているわけでもないのですが、同じノンセクトの活動家として、集会やデモの現場では時々一緒になりました。少なくとも古参の党派活動家のようなゴリッとした感じはありませんでしたね」
一方、明学には世間一般が持つ「都会派」イメージを裏切ることのないカルチャーも確かに存在した。
「音楽活動が盛んで、学内には数多くのバンドがあった。ロック青年とノンセクトラジカルはかなりの部分で重なっていました。そうした雰囲気もあって、私も桐島も、闘争だけに明け暮れていた68~69年世代とは違った風景を見ていたのだと思います」
だが、そうした風景も長くは続かない。機動隊導入、ロックアウト、処分乱発などで、明学の運動も徐々にしぼんでいく。アクティブな活動家たちは、大学の外に運動の場を求めた。