たとえば、性産業を批判するフェミニストに、「多様性を無視するな」「職業差別だ」と非難する声は大きい。セクシーダンサーを招いた男性議員を不適切だと批判することは、多様性の観点からプロとして働くダンサーを傷つける……という理屈だ。そこにはそもそも女性が排除された場所で物事が決められていく構造や、男女の経済格差、女性の性が商品化されることの批判的な視線はない。
多数派が涼しい顔で使う「多様性」とは、責任者や加害者の顔をぼやけさせ、差別構造の解像度を低くさせる便利な言葉になっているのではないか。「多様性」の濫用で、目の前で踏みにじられている尊厳に鈍くなってしまうような……そんなことが起きているのではないだろうか。
3月8日は国際女性デーだった。岸田さんは、「女性活躍・男女共同参画は、全ての人が生きがいを感じられ、多様性が尊重される社会の実現、我が国の経済社会の持続的発展において、不可欠な要素です」などと、公表したスピーチで述べた。短く、中身の薄いものであった。ここでも安易な多様性が使われている。
多様性を言うのなら、女性議員を増やしてくれよ。世界115カ国が批准している、女性差別を国連に通報できる女性差別撤廃条約選択議定書に批准してくれよ。選択的夫婦別姓を認めてくれよ。女性の声を聞いてくれよ。言いたいことは山ほどある。
さらに岸田さんは、このスピーチを公表した日に共同親権を認める民法改正案を閣議決定した。共同親権を求める運動は「子どもを連れ去るな」と声をあげた男親が中心となって広がってきた。男親への同情的な社会の空気に必死に抵抗してきたのは、DVやモラハラなどで夫と関係を絶ちたい女性や子どもたちである。共同親権がなくても、裁判所は離婚した親と子の面会を積極的に推進してきた。その結果、面会交流日に子が殺されたり、暴力を受けたり、性被害にあったりする事件が実際に起きている。