他者が抱くイメージは、ときとして現実とずれている。その「ずれ」に注目すると、新しい何かが見えてくる。
 たとえば実存主義の哲学者、サルトルがピアノを弾くならば、ウェーベルンとかベルク、あるいはサティ。クセナキスほどの難曲は無理としても、20世紀の音楽を弾いてほしい。せめてバッハか。
 ところが実際は、ショパンをこよなく愛し、よく弾いていたのだという。しかも、いっこうに上達せず、たどたどしく。よりにもよって、ベタベタなロマン派、ショパンとは! なにゆえ?
 フランソワ・ヌーデルマンの『ピアノを弾く哲学者』は、サルトルがショパンを弾くビデオを見たことをきっかけに書かれた本。ゴリゴリの研究書というよりも、ピアノ演奏と哲学者をめぐる哲学的エッセイである。サルトルのほか、ニーチェとロラン・バルトについても考察される。
 3人ともしょっちゅうピアノを弾いていたらしい。驚いたことに、3人とも好んで弾いたのはショパンやシューマンなど19世紀ロマン派の音楽だった。イメージとずいぶん違う。
 サルトルは音楽についても語ったが、取り上げるのはクセナキスやシュトックハウゼンなど同時代の前衛たちだった。それなのに弾くのはショパン。しかし、だからといって、彼が心の底では反近代主義者だったのだ、などと指弾するのは早計だと著者はいう。
 そういえばサルトルは、しばしば自分とかけ離れた人物に自己投影してこなかったか?と著者は問う。ボードレールやジュネやフローベールについて。あるいは、ショパンのメランコリー(憂鬱)とサルトルの小説『嘔吐』との関係について。著者の思考はサルトルの哲学や文学、そして人生の根幹へと向かっていく。ニーチェ、バルトについても同様だ。
 サルトルがショパンを弾いていた、というエピソードひとつから、こんなにも話が深まるなんて。これぞ思考の冒険と愉しみ。

週刊朝日 2015年9月4日号