青果市場は市内の別の市場と統合し、規模が大きくなっていたが、加盟店は約40に減少。競りもなくなって、少し寂しかったが、どこよりも懐かしい(撮影/狩野喜彦)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年1月29日号では、前号に引き続き平和不動産の土本清幸社長が登場し、「源流」である瀬戸市の旧青果市場(現・総合卸売市場)を訪れた。

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 瀬戸物の街・愛知県瀬戸市で1959年11月に生まれ、実家は青果商だった。父も母も朝から晩まで店で客の相手をしていて、放っておかれた。一人っ子だが、遊んでもらったことは、ほとんどない。

 父は毎朝5時半に小型トラックを運転して青果市場へいき、野菜や果物などを仕入れた。小学校に入ると、夏休みや春休みにはついていき、父が競りで落とした品々をトラックへ運ぶ役をする。一緒に過ごすことができる、数少ない時間だった。

よく似た二つの市場 父子で守り抜いた「取引の公正さ」

 就職した東京証券取引所と父たちの青果市場は、いろいろな点で似ていた。青果市場は組合員でなければ取引できなかったし、東証も会員の証券会社しか売買できない。でも、限られた参加者では、取引の拡大に限界がある。青果市場には大手スーパー、東証には銀行や海外の証券会社が参加を望み、どちらも条件付きながら門戸を開けた。

 青果市場の組合長も務めた父は、常に「取引の公正さ」を第一に置いた。自分も、東証で1998年の金融危機に際し、株式市場の「取引の公正さ」を守り抜く。それを父がどう受け止めたか聞いたことはないが、その気構えは、東証から平和不動産へ転じた後も崩していない。

 企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。

 昨年11月、瀬戸市の旧青果市場を、連載の企画で一緒に訪ねた。

 土本清幸さんが、ビジネスパーソン人生の『源流』になったという父の言動を、見聞した場所だ。

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