浪人中に同級生が大学卒業
一番つらかったことは?
「5浪目です。高校の友達が大学を卒業し、社会人になり、結婚する人も出てきたんです。今まで人と比べることはほとんどなかったのですが、周りはどんどん進んでいるのに、自分だけ何も変わっていなくて時間だけが過ぎている感覚に襲われました。この年は精神的に一番きつかったです」
それでも「5浪生」として予備校に通い、勉強を続けることになる。
「もうその頃は『多浪ズ』じゃないですけど、多浪同士の仲間が何人かできていましたね。女性でも一つ下に4浪の子がいたんですよ。あとはいったん大学に行ったけれど医学部に受験をし直す再受験組もいました」
5浪後の受験も残念な結果となり、改めて家族会議を開いたという。
「わりとコミュニケーションは密に取る家庭だったのですが、ここで次は医学部でないところも受けよう、となりました。それは自分でも納得の選択でした。そして今年が最後だから悔いのないようにやり切ろう、と決めて有名な講師がいる京都の予備校に行くことになるのです。そこで最後の6浪目もまた寮生活をすることになったのです」
また新しい予備校で、新しい環境に飛び込むことに?
「そうなんです。6浪と聞いて、さすがに周りの子に驚かれました。私は昭和最後の年の生まれなのですが、『え!昭和生まれなの!?』って。でも次第に5歳年下の子たちとも仲良くなることができました。人見知りせずに比較的すぐに友達をつくれるほうかな、とはと思います」
父親の言葉で吹っ切れる
最終的には医学部と福岡大理学部を受け、福岡大理学部のみ合格を得る。
「正直、詳しく調べたわけではなくて、実家から通えるところで数学系の大学、という選択でした。実際に入学したら、プログラミングの授業などもあり大変でした。しかしさすがにもう留年するわけにはいかないので、真面目に通っていました」
大学選びに後悔はなかった?
「6年間も浪人して結局医学部に行けなかったことに対して大学1年目はモヤモヤしていたこともありました。なぜこんないらない苦労をしてしまったのか、と。そんな時に父に、それは苦労じゃない、浪人したくても環境的に難しい人もいっぱいいる中で、やりたいことを6回も挑戦できたっていうのはすごく恵まれていることだ。苦労とは言えないよ、と言われて。本当にそうだって思って吹っ切れました」
6年間の浪人生活で得たものは?
「なんと言っても感謝の気持ちです。まずは両親や家族に感謝の気持ちでいっぱいです。学費はもちろん、日々のサポートなど、やりたいことに挑戦する環境を与えてくれて、ずっと応援してくれました。浪人時代の仲間はもちろん、高校のときの友達もすごく支えてくれて、その存在は本当に大きかったですね。たまに連絡をくれたり、受験前はお守り持ってきてくれたり。今振り返ってみると6年も浪人できたのは紛れもなく周りの人たちのおかげだったと思っています」
※【後編】<原千晶アナのリアル七転び八起き人生 6浪した私がアナウンサーになったわけ>では、なぜアナウンサーを目指すことになったのかを中心に話してくれました。
(構成/編集ライター・江口祐子)
※AERAオンライン限定記事