運命の曲「The Giving」との出合い
きょうだいで競い合い、早くから頭角をあらわした。10歳で、初の海外公式戦であるチャレンジカップのデブスクラスで優勝。12年の全日本ノービス選手権ノービスBでは歴代最高点で優勝。ジュニアに上がった15-16年シーズンは、バルセロナで開催されたジュニアグランプリファイナルで銅メダル、シニアの全日本選手権にも推薦出場した。そして16年の世界ジュニア選手権で優勝し、世界で戦うトップスケーターへの扉を開いた。
ただ、その世界タイトルは重荷にもなった。
「ずっと、お兄ちゃんにだけは負けたくない、追いつきたい、という気持ちでスケートをやってきていましたが、世界ジュニアで優勝したあたりからたくさん注目していただくようになって。どんなときもカメラの方が一緒で、『良かったな、幸せだったな』と思うこともたくさんありましたけど、小さいころの私は『つらいな』と思うことももちろんありました」
シニアに上がった17-18年シーズンからは、重圧と自分への期待で苦しんだ。しかも平昌五輪のシーズンで、まだ16歳だった本田もその候補の一角と言われ、戸惑いもあった。その時期、本田を支えたのはショートのプログラム「The Giving」だった。
すでに別のプログラムでシーズンをスタートする予定だったが、17年8月のある日、濱田美栄コーチが運転する車内でかけていた曲を聴き「今まで出合ったことのない、運命の曲に出合った」と感じた本田。美しい旋律のピアノ曲で、気持ちがやわらぎ、心が洗われるような一曲だ。葛藤と向きあう日々、この曲を心の支えにした。
引退会見でも、一番の思い出の曲を問われ「The Giving」を挙げた。
「好きなプログラムは、たくさん、たくさんあるけれど、『The Giving』という曲が私の中では本当に特別です。家族への思いを、振り付けの方と相談して作っていただいたプログラム。何かつらいなと思う時にひとりで練習したり、今でも練習するような、特別なプログラムです」
このシーズンの試合だけでなく、昨季のアイスショーなどでも何度も披露。たおやかな滑りとメロディーが絡み合い、優しさで包まれていくようなプログラム。家族への思いをこめて滑っていると聞き、納得がいった。