親子の関係性も主題の一つ
脚本にも1年弱の時間をかけて、入念に手を入れた。
当初は、百瀬氏、西村氏、外部の脚本家の3人で物語の構成を練っていたが、どうにも展開がうまくはまらない。特に、アマンダの脳内を再現した冒頭のシーンは、「アニメーションだからこそできる表現について議論を重ねた」と西村氏は話す。
「実写に比べてアニメーションの自由度は高い。さらに今回はテーマがイマジナリ、想像の世界だから“何でもあり”な状況です。でも、だからこそ必然性がほしいんですね。なぜここで巨人を出すのか、リスを出すのか、クジラを出すのか。作中では語らずとも、つなげて見ることで『こういうことなのかな?』と想像してもらえるようにしたかった」
例えば冒頭では、金色の粒子でできた鳥が登場するが、これは神経細胞のネットワークを走る電気信号をイメージしているという。百瀬氏は、「ラジャーの物語に対する西村君の思い入れの強さは、言葉の端々から伝わってきた」と話す。
「彼は原作を読みながらすごい長文のプロットを作っていて、全部のシーンの分析点や問題点を洗い出していた。そこまで頭の中に具体的なイメージがあるなら、『自分で脚本を書いてみたらどう?』って僕が言ったんです。今思うと、ちょっと誘導された感じもするんだけど(笑)」(百瀬氏)
また百瀬氏は、原作にはない要素として、「西村君の父親としての部分が、物語に反映されているなとは感じた」と話す。
詳細は本編を観ていただきたいが、ラジャーの出生には、アマンダの父親の死が深くかかわっている。また、ひとりで書店を切り盛りしてアマンダを育ててきた母・リジーとの気持ちのすれ違いなど、「親と子の関係性」も本作の主題の一つとなっている。
「僕自身、10歳のときに両親が別居して母に育てられたので、思春期の頃の父親の記憶がないんです。だから今、自分が父として、子どもとどう向き合えばいいのかわからないときもある。ただ子どもたちには、自分を許容してくれる感覚というか。自分と同じものを見てくれる大人もいるんだと感じてほしくて、自然とこういう脚本になった部分はありますね」(西村氏)
本作は、子どもの想像力の豊かさを手放しで礼賛するものではない。「世界は残酷で愛に溢れている」というキャッチコピーにあるように、イマジナリが生まれた背景には、ままならない現実の物語がある。現実から逃避した存在でありながら、現実がなければ成立しない存在でもあるのだ。
「わたしたちの人生にも同じ部分がありますよね。先が見えないから不安になるけど、先がわからないから希望も持てる。そういう矛盾というのは実はそこかしこにあって、人間がどう思うかによってイマジナリのように見え方が変わってくる。この作品を通じて、そんな存在に少し想像力を巡らせてもらえたら嬉しいです」(西村氏)
(文/澤田憲)
※AERAオンライン限定記事