「自分も社会の一部である」ということからは逃れようがない

新聞はいろんな立場の人が読んでいるし、「本当に言い切っていいのか」という逡巡はいつもあります。ブログに書くときは自分の気持ちを表明するだけでいいんだけど、新聞はパブリックな場所だし、読んでくれた方を傷つけたり、屈辱的な気分にしたりしてもよくないので。たとえば誰かを批判したときに、「本当に自分には責任がないのか」みたいなことも考えるんですよ。糾弾するのは簡単だけど、「でも待てよ。俺にもできることはなかったか?」みたいな姿勢も必要だし、自分にも求めたいことの一つですね。

――逡巡し、自分を疑うことで、書けることの幅が制約されそうな気もしますが。

そうなんですけど、「嫌だったら断れよ」という話なので(笑)。問題意識は持っているし、書く方向は決まっているんだけど、「お前はどうなんだ?」ということを常に自分に向けておくということですね。音楽の場合は「好きじゃない」「よくない」みたいなことを簡単に言えるし、それでいいと思うんだけど、社会的なことに対して発言するときは、自分も当事者というか。「自分も社会の一部である」ということから逃れようがないですからね。

――後藤さんご自身も連載を重ねるなかで少しずつ価値観が変化し、視野が広がっていますよね。たとえばアジカンの歌詞で“女々しい”という言葉を使ったことに対する思いだったり、映画「軽い男じゃないのよ」を観て、社会的な性差の問題に気づいてなかった自分を「恥ずかしい」と感じたり。

変化しない人はいないと思うんですよ。地球が丸いとは誰も思ってなかった時代もあるわけで、常識なんていつ覆るかわからないじゃないですか。それは音楽も同じで。たとえばスピーカーを変えるだけで、聴こえてくる音が大きく変わって、音楽に対する理解が進むこともありますからね。環境によって見えるもの、聴こえるもの、感じられるものは変わるし、今の自分がわかっていないことはたくさんある。一冊の本が価値観を変えることだってあるし、そういうことの連続なんだと思います。

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