カップスは惜しくも1972年の年始をもって解散したが、地道な演奏活動を続けロックシーンでめきめきと頭角をあらわした高野。その後、ミッキー吉野グループなどを経て79年には竹田和夫率いるクリエイションに加入。哀愁をおびたハイトーンボイスで歌った81年のシングル「ロンリー・ハート」ではオリコン週間ランキング8位を獲得し、ふたたびヒット・チャートに返り咲いた。
高野といえば数々の“不良”エピソード。元・付き人で後に共にADULTY、RAYSなどのユニットで活動を共にした東ユースケはこう語る。
「優しい人だったんですが、半面、ストレスをためやすい繊細な人柄で、その発散をお酒に頼っていたんです。80年代、アイさんは大阪・ミナミで『ルイ』というライブバーをやってたんだけど、ある日仲良しの松田優作さんが遊びに来たら閉まっている。不思議に思って連絡を取ろうとしたら常連たちと一緒に捕まってたなんてエピソードがあります」
そんな不器用な生活が知らず知らずのうちに体を蝕んでいたのか。80年代以降も「銀河疾風サスライガー」「ペットントン」といったアニメ、特撮番組の主題歌などを手がけ、順調な活動を展開していた高野を病魔が襲った。
「50歳を過ぎた頃、肝臓疾患など次々と病気が見つかりました。あんなに元気だった人がすっかり弱ってしまって……亡くなる3カ月前、神戸国際会館で開催されたイベントにRAYSとして呼ばれたんですが、もうそんな状況じゃなかったので僕は反対したんです。でも『どうしても出たい』と。結局、なにかあった時のために舞台袖に担架を用意して本番を迎えたんですが、しっかりやり切りましたよ。プロ根性ですね。今思い出しても涙が出てきます」(東)
高野が亡くなったのは2006年4月1日。まだ55歳という若すぎる死だったが、その不世出の才能はいつまでも日本の音楽史に輝き続ける。(中将タカノリ)
※週刊朝日 2023年4月7日号