前出の越川によると「レコーディングは無我夢中」だったという。
「わけのわからないままだったけど、格好よく仕上げられたという実感だけはありました。それが発売されるやいなや120万枚を超える大ヒット。いきなりテレビで芸能界のスターたちと共演するようになり、みんな面食らってましたが、高野はそういう世界に溶け込むのが早かったですね。人当たりがいいし、人から愛される独特の魅力があったと思います」(越川)
後にザ・ゴールデン・カップスで活動を共にしたミッキー吉野が高野に初めて会ったのは吉野がカップスに加入する直前だったという。
「池袋ドラムでカップスとカーナビーツが対バンした時でした。食事しながら『この生姜焼きうまいよ』『どうしてカップスと知り合ったの?』なんて気さくに話しかけてくれて嬉しかった。優しくてカッコつけなくて気を使う……他人の悲しみがわかる人なんでしょうね」
「子どもの頃、別れたお父さんが置いていったレイ・チャールズの『我が心のジョージア』のドーナツ盤をずっと聴いていたというエピソードに感動し『LOVE ALWAYS,GEORGIA』という曲を贈ったこともありました」
悲願だった父との再会も果たし、続けてリリースした「恋をしようよジェニー」「オーケイ!」もヒット。街を歩けぬほどの人気者になり絶頂の高野だったが、GSブームの退潮は驚くほどに早かった。
1969年に入る頃には他のグループ同様、レコードセールスが低迷。9月には解散に至った。最後までカーナビーツの存続を願っていた高野もここに至ってGSに見切りをつけ、GS出身ながらもニューロックバンドとして進化を遂げつつあったカップスに加入する道を選ぶ。
「ギタリストのエディ藩が彼を引っ張ってきたんです。モッチンはGSブームがなければもっとプレーヤーとして評価されたんじゃないでしょうか。ドラムはパワフルだし、歌もうまかった。なによりエンターテイナーとして華がありましたね」(吉野)