〈時間が読者と作者を引き裂いてしまった〉と高橋さんは本書の中で書いている。だから、中身は変えずに、親鸞が話した言葉をいまの言葉に、親鸞がいま生きていたらこういうだろうなという言葉に、それぞれ少しだけ変えて、読者に届けることにした。
「親鸞は宗教家というよりも、言葉を信じた人、つまり文学者に近い人だったのではと思っています。たとえば、『論語』(『一億三千万人のための「論語」教室』)を翻訳した時もですが、孔子も親鸞も弟子に正解を言いません。教える、というよりも伝える言葉を通して弟子たちを内側から変えてゆく、そんな感じです。それって作家に近い作業だと思うんですね。
親鸞も孔子もイエスも、何か訊かれたら即答します。なぜそれができるかというと、正解を探さないからです。どこかにある正解を探そうと思うと、探す時間が必要になる。けれど、孔子は『仁』って何ですかって問われたら、『お前にとっての「仁」はこれだね』って言うだけ。一種のカウンセリング。だから早い。これは対話の原理みたいなものです。何か問われたら、すぐに相手に返す。なのに受け取った相手は納得してしまう。親鸞もそういう人でした。
『偉い人の話は長い』と書いたのは鶴見俊輔さんですが、偉い人って『壇の上』でずっと喋っていますよね。相手を見ずに。そういう講演会みたいな本って実は多い。それではせっかく親鸞の話を聞いていても一方的な宗教の講演会になってしまいます。そうならないためにはどうしたらいいのかを考えました」
>>後編「『歎異抄』は「愛の物語」だった? 作家・高橋源一郎が読み取った親鸞と唯円の関係性」へつづく
(編集部・三島恵美子)
※AERA 2023年11月27日号より抜粋