木村九段とともに、多くの人が大声をあげただろう。「勝率」の表示は「99%」から「16%」に急変。そしてAIが読み進めるにつれ、その数値は数%にまでしぼんだ。世紀の大逆転だ。藤井はすぐに玉を上がって逃げる。これで藤井玉には詰みもなければ、永瀬玉に受けもない。
将棋は残酷なゲーム
再びギリギリまで秒を読まれたあと、永瀬は自陣に桂を打つ。そして右手を自分の顔にこすりつけた。明快な勝ちを逃したとわかったのだ。永瀬は天をあおぎ、両手で頭をかきむしり、鬼のような形相を見せた。そして後ろの方を向き、悲痛な表情を浮かべた。将棋は残酷なゲームだ。永瀬ほどの名手であってもミスをする。そしてわずか一手のミスによって、形勢は一気にひっくり返る。
棋士にして名観戦記者だった故・河口俊彦八段の言葉を引いておこう。
「悲哀、屈辱、後悔、無念、落胆。敗者の心中はさまざまに揺れ動く。それが赤裸々な形で表れるのが、ちょうど投げる十分ぐらい前である。一瞬だが、すべてが表れる」
本局の観戦者はみな、将棋史が動く劇的な瞬間を、リアルタイムで目の当たりにした。
もう藤井は間違えない。着実に永瀬玉を追い詰めていく。永瀬は脱いでいた羽織を着て、居住まいを正す。落手を指してから十数分後。
「負けました」
はっきりとした声で永瀬が告げ、礼儀正しく一礼をする。
「ありがとうございました」
藤井もまた一礼を返して、世紀の番勝負は幕を閉じた。
藤井を追い詰めた永瀬は強かった。藤井の前に立ちはだかった他のトップクラスたちもまた、みな強かった。史上空前のレベルを迎えた時代にあって、藤井は八冠を達成した。
藤井にとっても、将棋界にとっても、いま見ているのは、ゴールの景色ではないようだ。将棋は変わらず指し続けられていく。この先も藤井や永瀬らによって、数々の名局が紡ぎ出されていくことだろう。(ライター・松本博文)
※AERA 2023年10月23日号