東洲斎写楽は八丁堀に住んでいた能役者の仮の姿?
東洲斎写楽はそもそも、版元・蔦屋重三郎のプロデュースで1794(寛政6)年にデビューしわずか10カ月間に134点の役者絵を残したあと、こつぜんとその姿を消した「謎の絵師」だった。
歌舞伎役者を描いた代表的な浮世絵「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」を思い浮を手がけたが、当時はまったく人気がなかったらしい。今でこそ「役者の内面に迫る」と絶賛されているが、写楽の作品は、役者のブロマイドにしては、隠すべき武骨な顔立ちが際立っていたからだ。
写楽の正体は、浮世絵界最大の謎の一つ。同時期に活躍した作家・山東京伝説や、葛飾北斎の異名説、前半期と後半期で作風が変わることから写楽は複数人いる説など、いくつもの説が発表された。
しかし近年の研究で、写楽の正体として最有力視されている人物がいる。江戸時代に書かれた浮世絵師の列伝記『増補・浮世絵類考』に登場する、阿波徳島藩主・蜂須賀家お抱えの能役者で、八丁堀に住んでいた斎藤十郎兵衛がその人だ。ただし、なぜ一時期だけ浮世絵を描いたのか、その理由はベールに包まれたまま。海外では肉筆の扇面画も見つかっていることから、今後も研究の進捗から目が離せない。
(構成 生活・文化編集部 塩澤 巧)