葛飾北斎筆「冨嶽三十六景 武州 千住」/「慶安の御触書」は江戸時代の農民の暮らしを今に伝える史料としても使われてきた。32条からなり、早起きを奨励し贅沢を禁じるなど、その内容は日常生活の細部に及ぶ(提供 アフロ)
この記事の写真をすべて見る

 研究者たちのもたらす成果がこれまでの常識を覆すことは少なくない。自然科学の世界ではもちろん、歴史学のような学問でも、それは起きている。

 例えば、江戸時代に発布され農民にくらしの心得を説いたとされていた「慶安の御触書(けいあんのおふれがき)」は歴史の教科書から姿を消しつつあり、江戸の浮世絵界に彗星(すいせい)のごとく現れたとされた東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)は浮世絵師ではなく能役者だったという説が有力視されている。

 オンライン予備校で「日本一生徒数の多い社会講師」として活躍する伊藤賀一氏が監修した『テーマ別だから政治も文化もつかめる 江戸時代』(かみゆ歴史編集部編)から、近代研究が暴いた江戸時代の謎「慶安の御触書」「東洲斎写楽」について紹介したい。

***

「慶安の御触書」は「17世紀」への憧れが生んだ?

「慶安の御触書」は、1649(慶安2)年、3代将軍徳川家光の時代に、江戸幕府が発布したとされる32条の法令だ。その内容は、幕府を敬い代官を大切にせよ、朝早く起きて草刈りをせよ、茶や酒を買って飲んではならない、麻と木綿以外の衣服を着てはならない……といった細々とした規制で、江戸時代の農民の暮らしを知る史料として名高い。

 ところが、近年の教科書では、この御触書の掲載をやめたり、1649年の幕府法令という断定を避けたりするようになった。発令当時の史料が、全国のどこからも見つかっていないことや、17世紀の法令に不可欠なキリシタン禁制などの条文がないことなどから、実在を疑問視する声があるためだ。

 とはいえ、まったくの偽文書、というわけではないようだ。同文書の最も古い事例は、1697(元禄10)年に甲府藩で出された32カ条の「百姓身持之覚書(ひゃくしょうみもちのおぼえがき)」である。さらに、その原型は甲斐国や信濃国で流布した36 カ条の教諭書「百姓身持之事」であるとわかっている。

 この文書が「慶安触書」として広まったのは1830(文政13)年のことだ。儒学者の林述斎(はやしじゅっさい)の助言を受けた美濃岩村藩が、この内容に「慶安二年二月二十六日」の日付をつけ、木版印刷によって領内に配布した。農民の教化にあたり、17世紀を理想としたためだろう。1649年の幕府法ではないとはいえ、江戸時代に出された法令であることは確かであり、史料価値が消えたわけではない。

次のページ
写楽の「正体」として最有力視されている人物