大学院修士課程修了後は、三菱総合研究所へ。アジア市場研究部に所属し、自動車メーカーや政府機関向けの調査研究に5年携わった。元同僚で先輩にあたる河村憲子は、会社員時代の様子をこう語る。

「当時、入山君はロン毛だったんです。型にはまらない自由な雰囲気から『王様』と呼ばれていました。外見は軽くても根は真面目で、人の話にもちゃんと耳を傾け、注意や説明を受けると柔軟に行動を変える素直さがありました。いわゆる“愛されキャラ”でしたね」

 海外出張は年に数回あったが、入山はもっと深く世界とつながりたかった。そのために手っ取り早い方法は「留学だ」と閃(ひらめ)いた。博士号留学を目指し、米ジョージタウン大学大学院の入学も許可されたが、経済学を深めるイメージを持てずに辞退。恩師だった故・佐々波楊子(慶應義塾大学名誉教授)に相談したところ、「これからはMBA(経営学修士)の時代よ」と助言を受けた。

 その言葉を素直に受け、経営学について調べてみた結果、数学ではなく自然言語でデータ解析をする学問手法であることに「自分に合う」と直感した。「人と同じ選択はしたくない」というこだわりを持つ入山にとって、修士課程のMBAではなく、あえて博士号に挑戦することは魅力だった。まして、海外で経営学博士号を修めた学者は同世代にほとんどいない。入山が好きな「レア化」の優位性が見えた。その読みどおり、安定した職を捨て、リスクをとった30歳の決断は、後に「気鋭の経営学者」と称され引っ張りだことなる入山のキャリアを決定づけるものとなった。

(文中敬称略)(文・宮本恵理子)

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