三菱商事時代(写真)は「俺は亜流」と思い、常にほかの人間と違うことを考え、提案し、給食事業で若くして経営の面白さを知った(本人提供)

 久しぶりにきた大桟橋は、きれいな木造になっていた。「これが木になったのは、知らなかった」とつぶやく。小学生のころ、叔母がここから客船に乗って米国へ向かったときが蘇る。まだ羽田空港から外国へいく人は多くなく、横浜港が世界への玄関で、外国人の姿をたくさんみた。その影響か「海外で仕事をしてみたい」との夢が生まれ、高校時代は「将来は外交官になりたい」と思っていた。

詳しくなった港町 デートで選ぶのは彼女が必ず喜ぶ店

 大学時代、いくあてもないときは、港に近い赤レンガの建物街や山下公園などで時間をつぶし、港町の店に詳しくなる。就職して東京の寮に入った後、デートの場は横浜が多かったが、どの店で食事をしたら彼女が必ず喜ぶか分かっていた。

 大きな客船が、入港した。子どものころにはみたことがない豪華さだ。船室が、何層にも重なっている。「すごいな、何室あるのだろう。動くホテルだ。こういう船で、のんびり船旅がしたいけど、できるのはいつになるかな」──少しうれしそうな声になる。

『源流Again』で、横浜翠嵐高校、実家、卒業した市立三ツ沢小学校にも寄った。高校の正門に着くと、脇にずらっと、文化系のクラブなどの活動の成果が示されていた。

 在学当時は運動が盛んで、自分がいたバスケットボール部も関東圏で3位になった。練習が好きでなく、合宿所から逃げて家へ帰ったり、好き勝手に練習したりで、チームワークを重視しない。仲間に「あいつがボールを持ったら、絶対にパスはこないぞ」とも言われていた。

 三ツ沢は丘の上にあり、坂道が多い。高校から坂を下りていくと、路地の奥の家に「新浪」の表札があった。ローソン時代に高齢になった両親を東京の自宅近くへ呼び寄せ、実家は弟の所有になり、もう何年もきていない。ツタの蔓が伸び、門は老朽化したが、姿形は変わっていない。ここに、大学を出て会社の寮に入った42年前までいた。

 懐かしい。「学校で喧嘩ばかりして、いつも母親が呼び出され、先生に怒られていた。体も大きくてお山の大将だったな」と、珍しく、しんみりした口調だ。母が亡くなって9年を超え、父が母のもとへいって5年が過ぎた。親孝行を十分にできなかったことが、悔やまれる。

 実家を出ると、高台から三ツ沢小学校がみえる。坂を下っていきながら「周囲の家は少し変わっているが、電信柱や電線の雰囲気は昭和のまま、変わっていないね」と周りを見回す。小学校も、手は入れられたが、雰囲気は変わらない。許可を得て、入ってみる。校庭に立つのは、約半世紀ぶりだ。何度目かの「懐かしいな」が出た。

 サントリーへ招いてくれた佐治信忠会長との縁は、ローソンの社長になった直後からで、もう20年。忘れられないのは、東日本大震災後にサントリーが流したテレビCMだ。子どもたちも知っている「上を向いて歩こう」の曲を、震災からの復興を祈って、様々なアーティストやタレントら71人が歌う。商品の宣伝は入れず、最後も曲名と「SUNTORY」のロゴだけだった。

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