
1983年夏の甲子園。優勝候補の最右翼、蔦文也監督率いる“山びこ打線”の池田高校に衝撃的な勝利を収め、一躍名前を挙げた2人の「K」――清原和博と桑田真澄。甲子園という舞台で数々のドラマを繰り広げた伝説の始まりから40年、中村順司PL学園元監督に聞いた。「甲子園2023」(AERA増刊)の記事を紹介する。
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桑田の遠投を初めて見たときのことは忘れられません。高い放物線を描いて100メートル以上投げる子はたくさんいます。だけど80メートルくらいをスーッと低く伸びる、回転のいいボールを投げたのは桑田だけ。長く指導をしてきましたが、後にも先にもあんなボールは見たことがありません。遠投の距離を測るときでも桑田は「ピッチャーなので遠くへ投げるより、低いボールを投げたほうがいい」と、山なりでは投げませんでした。
あの年には投手だった清原、192センチの田口権一、3年生の藤本耕もいました。重要な試合での桑田の初登板といえるのが、1年夏の大阪大会4回戦の吹田戦でしょう。舞台は南海ホークス(現・福岡ソフトバンク)の本拠だった大阪球場。桑田に聞くと「中学のとき投げています」と言ったため、先発を決めました。桑田の先発を発表すると、2、3回戦では球場行きのバスでもワイワイやっていたのに、誰も桑田に話しかけない。繊細な桑田は「俺たちの3年間は終わりやと3年生は思っている」と感じたようです。しかし、結果は2安打完封でした。
3年生にも認められはじめ、甲子園初戦の所沢商戦でも桑田を先発させました。彼には度胸の良さと、いい意味での開き直りがあった。清原は2回戦まで神経性の下痢で力が入らなかったようですね。ごつい清原でも、PLの4番というプレッシャーがあったのでしょう。清原には、打てなかったらどうしようと考えてしまうところもありました。