その一方で、局長の近藤勇は一向に攘夷を実行しない幕府の姿勢に困惑していた。新選組はあくまでも攘夷を目的とした集団であり、近藤は五月三日には新選組の進退に言及する上書を提出するのだった。

 池田屋事件後、近藤は将軍の再度の上洛と隊士募集のため江戸へ下る。そして、伊東甲子太郎に尊王攘夷が新選組の本旨であることを説き、同志らの入隊を承諾させることに成功した。

 さらに近藤は帰京を前に、蘭医で幕府医学所頭取の松本良順のもとを訪ねている。西洋諸国の事情に詳しい良順より、情報を収集するためで、攘夷断行の現実を知るためである。良順によると、軍事を始めとする諸国の実情を知らされた近藤は、「多年の疑団(中略)氷釈せり」(『蘭疇自伝』)と、疑問が解けたことを告げて席を立った。おそらく、幕府は攘夷を行うには欧米列強との軍備の差が大きく、これを埋めるまでは幕府を支え、長州藩のような安易な攘夷論を慎むべきであることと、幕府が攘夷に着手しないことを納得したのだろう。

 十月下旬に伊東らをともなって着京した近藤は、以後、いっそう幕府寄りの姿勢に改めていくのだが、隊内の反幕派は反発した。その一人が副長職にあった山南敬助である。また、入隊早々から幹部隊士として厚遇された伊東も、新選組からの脱隊を考え、慶応三年(1867)六月には「分離」との方便で離隊する。そのときに隊内に残していた数人の同志は、新選組総員の幕府取り立てを機に会津藩へ脱隊を懇願。しかし、これを新選組が認めるはずもなく、彼らは京都守護職邸の一室で切腹して果てるのだった。

 伊東が新選組によって暗殺されるのは、その5カ月後のことである。

※週刊朝日ムック『歴史道Vol.28 新選組興亡史』から

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