幕末、京都の治安を守る特別警察として活躍した新選組。鉄の結束を誇る組織として名を馳せたが、その一方で規律を乱す不良隊士や不満分子は容赦なく粛清していった。その舞台裏を追う。
嘉永六年(1853)、ペリー率いるアメリカ艦隊の来航に端を発し、国内には天皇を尊び、外国人を打ち払うべしとの尊王攘夷論が唱えられるようになる。しかし、幕府は国是の鎖港(港の封鎖)の存続を不可能と考え、開港に向かって進んでいた。文久三年(1863)に将軍・徳川家茂が上洛すると、朝廷は攘夷の断行を求め、家茂は実行期限を五月十日とした。もちろん、表面上のもので、実行に移すつもりはなかった。江戸に帰る口実のためのもので、実行が不可能であることは明らかだった。
反幕派の長州藩は、尊攘断行派が藩政を握っており、天皇の加茂社や石清水八幡宮への行幸を推し進めた。長州藩は天皇親政を目指し、朝廷を意のままにしようとしていたのである。
この動きに対して、朝廷と幕府の協力関係回復を目指す親幕派の薩摩藩は、京都守護職をつとめる会津藩と提携し、八月十八日に政変を起こす。御所の堺町御門を警備していた長州藩はその任を解かれ、京都を追われることとなる。
もちろん、長州藩はこれに屈することなく、自藩の藩士や同調者を京都に送り込んでいた。元治元年(1864)四月下旬に新選組はその事実をつかみ、市中の探索を開始する。
しかし、もともと新選組は尊王攘夷の下に生まれた集団だったため、隊士のなかには親幕派ばかりでなく、反幕派も存在していた。この不穏な空気に隊内の反幕派は動揺し、ついに六月五日の池田屋事件を前に多数の脱走者を生むこととなる。その1人だった阿部十郎は「五、六十人ばかりのうち四十何人という者は、(中略)ついに離散しまして……」(『史談会速記録』)とするが、これでは新選組が成立しなくなってしまう。「四十何人」が残ったというのが実情である。
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