制札は長州藩を弾劾するものである。それにもかかわらず土佐藩士が事件に関与したことが、当時の京都の情勢の複雑さを物語っていよう。会津藩と新選組は目の仇だったのである
制札は長州藩を弾劾するものである。それにもかかわらず土佐藩士が事件に関与したことが、当時の京都の情勢の複雑さを物語っていよう。会津藩と新選組は目の仇だったのである

 池田屋事件が導火線となる形で起きた禁門の変で、長州藩は会津藩や薩摩藩などの連合軍に敗れ、朝敵に転落した。その後の第一次長州征伐では降伏に追い込まれるが、慶応二年(1868)六月七日に開戦となった第二次長州征伐では逆に幕府が敗退する結果となる。

 状況は一変し、八月二十一日には長州征伐の停止の勅命が下った。長州藩は事実上朝敵ではなくなるが、ここで事件が起きる。

 京都の三条大橋西詰には長州藩を朝敵と名指しする制札が長らく立てられていたが、長州征伐停止の勅命を受ける形で、尊攘派志士が捨ててしまう。九月二日、幕府は再び制札を立てたが、五日には何者かにより再び捨てられた。十日に三たび制札を立てたが、三たび捨てられることを懸念した幕府は、新選組にその監視を命じる。

 新選組では隊士30名ほどを制札の付近に潜ませて監視したが、2日後の十二日夜に、土佐藩士8名が三条大橋にやって来た。立てられたばかりの制札を捨てようとしたため、潜んでいた隊士が藩士たちを取り囲む。そして、激しい斬り合いが始まった。

 不意を突かれた上に人数でも劣勢だった土佐藩側は藤崎吉五郎が斬られ、その場で絶命した。重傷を負った安藤鎌次は闇夜に紛れて脱出し、藩邸に逃げ込んだものの、翌日に自刃した。同じく重傷を負った宮川助五郎は新選組に捕らえられたが、他の5名の藩士は取り逃がしてしまう。新選組の失態だったが、この時の斬り合いでは新選組にも怪我人が多数出ている。

 新選組により藩士を殺傷された土佐藩だが、今回の三条制札事件の場合は土佐藩にまったく非があった。困惑した土佐藩は新選組や会津藩に詫びを入れる。明保野亭事件の時とは立場がまったく入れ替わり、土佐藩が会津藩に頭を下げる図式となった。

 幕府が長州征伐に失敗したことも相まって、会津藩としては土佐藩との関係を重視していた。よって、その詫びを受け入れ、事態は終息に向かう。

 十二月二十日、会津藩は制札の監視にあたった新選組の隊士30人ほどに褒美を与えている。原田左之助たち4名に20両ずつ、安藤勇三郎たち5名に15両ずつなどであった。

監修・文/安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)/1965年生まれ。歴史学者。早稲田大学教育学部社会学科地理歴史専修卒。同大学院文学研究科博士課程満期退学。著書に『大江戸の裏娯楽事情』(朝日新書)など。

*週刊朝日ムック『歴史道VoL.28新選組興亡史』から抜粋

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