制札とは禁制・布告・掟などを記した立て札のこと。幕府によるプロパガンダの役割を果たし、人目に触れる場所に掲げられた。写真は二条西詰に立てられた制札を絵入りで解説したもの(国立国会図書館所蔵)
制札とは禁制・布告・掟などを記した立て札のこと。幕府によるプロパガンダの役割を果たし、人目に触れる場所に掲げられた。写真は二条西詰に立てられた制札を絵入りで解説したもの(国立国会図書館所蔵)
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 幕末、京都の治安を守る特別警察として活躍した新選組。尊攘派の浪士はもちろん、市井の人々からも畏怖された存在だったという。その武名を轟かせた5大事件の舞台裏を追う。

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  新選組による取り締まりの対象だった尊攘派志士には脱藩などで藩と無関係な者もいたが、藩士も少なくなかった。その場合、新選組を預かる会津藩としては出身藩との関係に、たいへん苦慮することになる。

 長州藩とは池田屋事件を機に全面対決となり、それを受け入れる道を選んだわけだが、他藩の場合、そうもいかなかった。

 例えば、土佐藩は長州藩と同じ有力外様大名だったが、従来より幕府に近い政治的立場を取っていた。池田屋事件の頃も両藩の関係は悪くなかったが、事件から5日後の元治元年(1864)六月十日に、新選組の志士取り締まりに巻き込まれる形で、会津藩と土佐藩は一触即発の事態に陥る。いわゆる明保野亭事件である。

 池田屋事件の直後でもあったため、新選組や会津藩による過激な志士たちの捜索は依然として続いていたが、この日、新選組は聖護院の雑掌2名を捕らえる。吟味の結果、祇園の南の明保野という茶屋に20人ほどの長州人がいるとの自白を得た。

 新選組は隊士15人の派遣を決めるが、会津藩にも応援を要請し、藩士5名が明保野亭まで出張ってきた。午前0時、二階の部屋に踏み込むが、帯刀した二人が階段を下りて一階に逃げてきた。

 一階を固めていた会津藩士の柴司は長州人と思って後を追いかけた。垣根を壊して逃げようとしたため追い詰めたところ、抜刀してきたため、槍で突いて負傷させた。

 そこで新選組が姓名を確認したところ、長州人ではなく土佐藩士の麻田時太郎という者であったことが判明する。新選組と会津藩側が長州人と間違えて、手傷を負わせてしまったのだ。

 大小の刀を取り上げられた麻田は土佐藩邸まで連行されたが、土佐藩では藩士が恥辱を受けたとして激高する。新選組の屯所、あるいは会津藩の本陣が置かれた黒谷の金戒光明寺に押し寄せる勢いになったが、家老が制止したため、大事には至らなかった。その日、新選組は夜通しで厳戒態勢を取った。

 会津藩では事態を何とか穏便に済ませようとするが、その後、麻田が自刃したため、喧嘩両成敗のような形で事態収拾のため柴を自刃させなければならなくなる。会津藩としては同じ政治的立場の土佐藩と無用のあつれきを起こしたくない事情もあった。柴も藩の苦衷を理解し、自刃して果てた。

 この明保野亭事件は、新選組による取り締まりがきっかけとなって会津藩と土佐藩双方に犠牲者が出てしまった事例である。

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第二次長州征伐では幕府が敗退