FR決勝まであと1時間というタイミングで、井村コーチは乾に声をかけている。

「自分が今まで正しいと思ってやってきたことを、信じなさい」

「『コーチも選手も今揺れているから、揺れている中で一緒に揺れないで。揺れているから、余計に自分の今までやってきたことを信じて演技しなさい。自分のやってきたことを、ともかくやり切りなさい』って言ったんです。どう言ってあげたら彼女の力になるかなと思ったら、それ以外なかったんですね」

 数々の大舞台を踏んできた井村コーチだが、この世界選手権のFR決勝に関しては「これをしたら大丈夫、という正しいことをつかめないままで(試合に)出した」と吐露している。すべての手を尽くした末にたどり着いた結論は、「自分を信じるしかない」ということだった。

 FR決勝後、「やり切ったと思える大会になりましたか」と問われた乾は「はい」と答えている。

「(福岡での世界水泳選手権を)すごく待ち望んでいました。本当は2021年開催予定で、だいぶ待ちましたけど、そこまで粘ってこの大会に出た意味はあったと思いますし。こうやって実際にたくさんの方に観ていただくことができて、とても幸せです」

 新しい基準に真摯に向き合った自分を信じ、戦い抜いた大舞台。表彰台の一番高いところに立った乾は、目をうるませて君が代を歌った。(文・沢田聡子)

●沢田聡子/1972年、埼玉県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、出版社に勤めながら、97年にライターとして活動を始める。2004年からフリー。シンクロナイズドスイミング、アイスホッケー、フィギュアスケート、ヨガ等を取材して雑誌やウェブに寄稿している。「SATOKO’s arena」

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