江戸時代の算術書のベストセラーとなった『塵劫記』は初版以来、何度も改訂版が刊行された。写真はその改訂版もその一つ。数の単位が説明されるなど、算術の基本的な知識が網羅されている(吉田光由『新編塵劫記』/国会図書館蔵)
江戸時代の算術書のベストセラーとなった『塵劫記』は初版以来、何度も改訂版が刊行された。写真はその改訂版もその一つ。数の単位が説明されるなど、算術の基本的な知識が網羅されている(吉田光由『新編塵劫記』/国会図書館蔵)

 これほどまでに教育が充実した背景には、江戸時代の「文書主義」が挙げられるだろう。書類のやりとりに基づいて物事を進め、記録をしつかり残そうとする意識が、幕府や各藩から農村にまで浸透していた。「読み・書き・そろばん」はあらゆる人々にとって欠かせないものだったのだ。

 学習の場は実用的なものだけではなく、三味線や琴、長唄といった大人の手習い塾も人気だった。とくに江戸には、昌平坂学問所など公立の学校から、専門性の高い私塾までさまざまな教育施設が立ち並び、郊外からも多くの人々が熱心に通っていたそうだ。こうした庶民の知的好奇心が、日本を世界有数の教育国家に押し上げたのだ。

 とりわけ「和算」は、江戸時代の人々の教養の高さを示し、日本の数学を発展させる基礎となった。

「和算」の歴史は、奈良時代にまでさかのぼることができ、その源流は中国の数学にある。とはいえ、和算が発展しはじめたのは江戸時代に入ってからのこと。戦乱の世が終わり、本格的な経済中心の社会になったことで、算術の需要が高まったのだ。

 その象徴的な出来事は、寛永4(1627)年に出版された『塵劫記』の大ヒットだろう。『塵劫記』は庶民向けの数学書で、その内容は、両替や利息の計算といった実用的なものから、「ねずみ算」や「鶴亀算」、数学パズルまでさまざま。同書は和算の代名詞的な存在となり、広く一般に数学的素養を高め、のちに多くの数学者を生み出した。なかでも、関孝和は代数の計算法や円弧の長さの計算法を発見するなど、当時のヨーロッパに引けを取らない数学者として知られている。

 江戸時代の数学者たちが多くの業績を残した一方、和算は庶民の間では実用だけでなく、趣味や芸事の一種としても親しまれていた。当時の人々の熱心ぶりは、神社仏閣に奉納された算額から垣間見ることができる。算額は数学の問題を額や絵馬に記したもので、その難題が解けたことを神仏に感謝し、さらなる精進を誓うものだった。なかには、自らの研究の発表の場として、その成果を絵馬にする者もいたようだ。

 江戸時代に花開いた、数学を学び楽しむ和算文化だが、明治維新以降は世界基準に合わせて西洋の数学が採用されるようになり、次第に廃れていった。

(構成/生活・文化編集部 塩澤巧)

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