寺子屋の子どもたちが成果を発表する「席書会」の様子。部屋のあちこちに書の作品が掲げられ、楽しげな雰囲気が伝わってくる。(一勇国芳「幼童席書会」の部分/国立国会図書館蔵)
寺子屋の子どもたちが成果を発表する「席書会」の様子。部屋のあちこちに書の作品が掲げられ、楽しげな雰囲気が伝わってくる。(一勇国芳「幼童席書会」の部分/国立国会図書館蔵)

 大河ドラマ「どうする家康」はまだ戦乱のさなかだが、その戦乱の先にやってくる「江戸時代」の日本は、現代人から見ても、庶民の教育水準が高かったとされている。

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 江戸時代の人々の知的好奇心には目を見張るものがあり、藩校や寺子屋といった教育施設では、武士だけでなく町人などの庶民に至るまで、一般教養を身につけようと励んでいた。数学書『塵劫記』がベストセラーとなったことからも、そのレベルの高さがうかがえる。江戸のエスプリを支えたのは、教育の多様性だったのだ。

 江戸時代の教育の実際について、『朝日脳活ブックス 江戸時代の言葉遊び・浮世絵・和算で楽しむ お江戸脳トレ帳』から抜粋して紹介したい。

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 幕末に日本を訪れた海外の要人たちは、日本に暮らす人々を見て、その識字率の高さに驚いたという逸話がある。当時のイギリスやフランスなど西洋の国々では識字率が3割にも満たないのに対し、江戸時代の日本の識字率は6 割を超え、地域によってはさらに高い識字率だったと見られている。

 鎖国という極めて内向きの対外政策を取りながらも、江戸時代の教育水準は世界水準をはるかに超えていた。当時の教育を支えたのは、藩校と寺子屋という二つの「学校」だった。

長州藩(萩藩)の藩校「明倫館」は、幕末に数多くの英傑を生み出した。その跡地にある「萩・明倫学舎」は近年まで小学校として使われていた木造校舎を本館とし、明倫館の歴史を伝える展示室もある photo Hiroko/PIXTA(ピクスタ)
長州藩(萩藩)の藩校「明倫館」は、幕末に数多くの英傑を生み出した。その跡地にある「萩・明倫学舎」は近年まで小学校として使われていた木造校舎を本館とし、明倫館の歴史を伝える展示室もある photo Hiroko/PIXTA(ピクスタ)

 藩校は、各藩が学問興隆のために開いたもので、武士の子どもが対象。読み書きだけでなく儒学や兵学など、統治者として必要な高い教養を身につける場という役割を担った。

 一方の寺子屋は、庶民向けの学校。義務教育ではないので入門は自由で、現在の学校のような学年も時間割もなく、児童の性格や家業などに合わせて、講師は一人一人に教育内容を用意した。往来物という当時の教科書は、歴史や漢詩、算学など、なんと7000種にも及ぶものが確認されている。

 寺子屋の開設については許可が必要なわけではないので、基本的にはどこでも開くことがでた。その数は江戸だけでも1300以上とされ、明治時代初期の調査によれば全国で1万6500にも及んだ。

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背景に江戸時代の「文書主義」