末っ子で母を「独り占め」
末っ子で母を「独り占め」

 安く売るには、安く仕入れなければならない。それには、相手が歓迎する現金取引にした。でも、思ったほど安くならないから、資金繰りが厳しい。やがて、小さな商店を守るためにあった大型店の売り場面積規制が緩和され、周囲に90坪くらいの店が増えた。どこも安売りが勝負。対抗するため、酒類の販売免許も取り、売り場や売り上げの約半分が酒類になっていく。

 86年、埼玉県坂戸市浅羽野にトップ2号店を開く。近くにドラッグストア「コア」があり、のちに合併することになるが、当時は激しく安売りの競争をした。すると、「コア」の約100メートル先にもドラッグストアができて、狭い商圏に3店という激戦区。消耗戦が続く。

■店を増やしても利益は増えず脱・安売りへ

 商品探しの次は用地探し。道路に面していて、100坪から120坪のところを選んだ。買い物がしやすいように、1階の売り場を広くとるためだ。ところが、店が増え、売り上げが増えても、利益は増えない。ついに「安売りだけでは、生き残れない」と悟る。この経験が、池野隆光さんのビジネスパーソン人生の『源流』となった。

 1943年9月、広島県御調町(現・尾道市)に生まれる。実家は農家で、父はのちに土建業も始めた。母と姉2人、兄の6人家族。年が離れた末っ子で母に可愛がられ、教えられもした。父は兄弟が多く、それぞれ丁稚奉公をして工務店を持つなど、事業を軌道に乗せていた。母は「みてごらん、苦労はしたけど、きちんとやっているじゃないか」と言い、こう続けた。

「他人に使われていたら、ダメだよ。人に使われる身ではなくて、人を使う身になりなさい。人を使うことは、人に可愛がられないとできない。だから、人が推してくれるような人間にならないと、いけないよ」

 大阪経済大学経済学部を卒業し、就職先に、知人もいない東京の製薬会社を選ぶ。「大学で大阪へ出たから、今度は東京で暮らしてみたい」との思いからだ。薬局担当の営業に就き、北関東3県などを担当した。だが、大学時代に知り合った女性との間に2人目の子どもが生まれるとき、退職を決めた。母が説いた「人に使われる身から人を使う身」へ踏み出すためだ。

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