いま最大の関心事は地域貢献の展開だ。各地にある店を巡ると地元の特産品を探し、それを菓子に活かして全国の店で売る。それが、夢の一つだ(撮影/狩野喜彦)
いま最大の関心事は地域貢献の展開だ。各地にある店を巡ると地元の特産品を探し、それを菓子に活かして全国の店で売る。それが、夢の一つだ(撮影/狩野喜彦)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA 2023年7月3日号の記事を紹介する。

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 1979年、埼玉県南西部の毛呂山町で、床面積20坪のドラッグストア「トップ」の1号店を、開業した。

 その8年前、大学を出て5年2カ月いた製薬会社を辞めて、薬剤師の資格を持つ妻と同県新座市に薬屋を開いた。だが、薬と化粧品を売るだけでは、利益が出ない。「世間には売れているものがたくさんあるのに、店が小さいと無いものが多い。いろいろ、扱ってみたい」。そんな思いを募らせての毛呂山進出だ。まだ、米国流のドラッグストアチェーンの構想があったわけではない。新座市の薬屋の運営は、妻に任せた。

■店を広げても売る品が不足で知恵を絞る日々

 ここから、安売りの消耗戦が始まる。トップ1号店は、東武越生線の武州長瀬駅から歩いて10分弱。宅地開発が急速に進んでいて、けっこう売れた。そんななか、隣の家具屋が店を閉めるので借りないか、と言ってきた。床が長く80坪もあり、合わせれば100坪。当時としては、長大な売り場になる。すぐに、借りると決めた。

 でも、今度は、売るものが足りない。流行っていたファミコンのゲームソフトを仕入れてみると、単価が高いのに、すぐに売れて「すごいな」と思う。家電製品には、いわく付きの商品を安値で取引する「バッタ屋」と呼ぶ流通経路があり、そこに目をつけた。街を歩いてよさそうな食品などを置いた店があると、飛び込んで問屋を尋ねる。いい情報があれば、取引の交渉へ向かう。そんな日々を重ね、家電製品やカーペット、飲料や菓子など様々な商品を並べた。このころから、「ドラッグストア」というビジネスを意識して品揃えを考え始める。

 83年、埼玉県の薬の販売業者の協同組合で、理事長になる。加盟店の大半は小さく、みんなの仕入れ数を集めて価格交渉権を強め、安く買う共同仕入れが役目だ。月2回、夜8時ごろに川越市の事務所に集まり、大学教授らを招いて勉強会も開く。終わると、会員同士で意見を交わし、さらに、飲みに出て議論を重ねる。そこで「100坪くらいの店にして、食品や菓子、飲料なども置かないと、古い薬局のビジネスモデルのままでは、やっていけないぞ」と、指摘する。

 予想は当たり、20世紀が終わるまでに古い「パパママストア」タイプの薬屋は、ほぼ淘汰された。そして、自らが進んだ安売り合戦にも、限界がくる。

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