混乱してしまう。金門島の人々は、攻撃してくるかもしれない中国からの観光客を渇望している。折り合いがつかない。

 実は、僕が金門島に訪れたのは今回が初めてではない。20年ほど前にも一度来たことがある。そのとき目にした光景は、今とはまったく違った。店などはほとんどなかった。

  第2次大戦が終わり、中国は国共内戦に陥る。中国国民党と中国共産党の内戦だ。1949年に台湾に拠点を移した国民党が大陸の共産党と対峙(たいじ)したのが金門島だった。大きな戦闘が何回かあり、金門島には10万人規模の兵士が駐留し、“軍事島”と化していく。兵士の数は島民の人口より多かった。

 島全体が要塞化への道を進んでいく。そのなかで金門島の人々は、産業を興すこともできなかった。台湾本島からの行き来は制限され、島の発展は止まった。人々は兵士の世話をするような仕事で生きのびるしかなかったという。

 しかし台湾と中国の間の緊張は少しずつ緩んでいく。1987年、台湾本島に敷かれていた戒厳令が解除され、金門島もそれから5年後に解除された。金門島は軍事公園として観光地の道を進みはじめた。台湾本島から観光客が訪れるようになっていた。

 僕がはじめて金門島を訪ねたのはそうした時期だった。観光地への展開は道半ばで、島は軍事島時代の緊張をまだ保っていた。

 ●年々増える中国人観光客

 金門島を本格的に活気づけさせたのは、2001年からはじまった「小三通」だった。ビジネス、交通、通信のことを中国語で三通という。通商、通航、通郵の自由化という意味を含んでいる。その小規模な交流が、金門島と対岸のアモイ、泉州との間にはじまったのだ。この交渉をまとめたのが、いまの台湾総統の蔡英文氏である。

 連日、何便ものフェリーが中国側からやってきた。アモイから金門島へは高速フェリーに乗れば30分で着いてしまうから日帰りも可能だった。金門島にやってきた中国人は、年を追って増えていく。交流が始まった2001年は千人に満たなかった中国人客は、2010年代の後半には30万人を超えるまでになった。

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「金門島バブル」後の新型コロナと中台緊張