解放感があった留学時代(写真:本人提供)
解放感があった留学時代(写真:本人提供)

 依頼企業は通信の大手で、割り当てられたテーマは固定電話の収益改善策。それまであった「自分は周囲にどう評価されているのか」とか「コンサルとして通用するだろうか」といった不安は、消えた。この仕事が終われば辞めるのだから、そんなことはどうでもいい。そう思うと、肩の力が抜けた。詳細は省くが、500億円の収益改善の可能性をみつけて、提案する。チームの面々も、後に続く。

 相手の企業は喜び、その後も仕事を指名してくれた。チームで同じ目標に向かって力を尽くし、達成する喜びを、生まれて初めて体験した。自信もつく。さらに、日本支社でパートナーにもなれた。そして、DeNAの起業もできた。千種さんがいなかったら、転職癖がついて、いまごろどうなっていたか。感謝の言葉も言い切れていないのに、今年1月に突然、亡くなってしまった。でも、『源流』は途切れさせない。

■東京の大学選び 父に迫られた二つの「約束」

 1962年4月、新潟市で生まれる。父は会社を経営し、母は専業主婦。母は海が好きで、姉と3人でよく泳ぎにいった。81年4月に津田塾大学英文学科へ進むとき、地元に置いておきたがった父に「ボーイフレンドをつくらない」「卒業したら言う通りに、新潟の企業に就職する」と二つ、約束させられる。

 女子寮で過ごし、4年のときに姉妹校だった米ペンシルベニア州のブリンマー大へ留学し、近代経済学に触れた。1年後に帰国し、マッキンゼーにいた先輩に誘われて東京・日比谷の支社であった会社説明会へいく。階段を上って進む劇場のような会場に、説明会が終わって始まった立食パーティーで「食べたいだけどうぞ」と言われた、小さくて美味しそうなオードブルの列。「何と格好いいことか」と思っただけで、入社を決めた。父は、反対しなかった。

 コンサルの仕事に興味があったわけではない。どんな仕事をするのかも、わかっていない。「ともかく、がむしゃらに働こう」という気持ちだけだった。

 だが、86年4月に入社して、空回りが続く。最初に手がけた調査は、海外拠点からきた「日本のモーゲージのセキュリタイゼーションの市場性を調べてほしい」との依頼。モーゲージもセキュリタイゼーションも市場性も、意味が分からない。分かったのは「日本」という2字だけだった。結局、よくわからないような回答を送るしかなく、落ち込んだ。

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