荒川沿いにくると、故郷の長野県を出て夫と染色工場を始めた「おばあちゃん」の姿を、はっきりと思い出す。苦労続きだっただけにその言葉はやはり重い(撮影/狩野喜彦)
荒川沿いにくると、故郷の長野県を出て夫と染色工場を始めた「おばあちゃん」の姿を、はっきりと思い出す。苦労続きだっただけにその言葉はやはり重い(撮影/狩野喜彦)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA 2023年5月29日号では、前号に引き続き損保ジャパンの西澤敬二会長さんの故郷・東京の北千住などを訪れた。

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 東京都の北東部、隅田川と荒川に挟まれた足立区の北千住は、日光街道の宿場として栄えた街。その荒川の土手の上に、四十数年ぶりに立った。土がむき出しだった堤防上の道は舗装されていたが、日が暮れるまで遊んだ河川敷の草地やグラウンドは残っている。生まれてから就職して名古屋市へいくまでみていた風景は、変わっていない。それが、うれしかった。

 この西澤敬二さんの「故郷」を、今年1月、連載の企画で一緒に訪ねた。

 企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。

■土手で追われて勉強に戻された 祖母が説いた道

 この土手で、祖母はる乃さんに追いかけられた。地元の小学校の6年のときだ。周囲に中学で受験をする友人はいなかったが、四つ年上の兄が受験して慶応義塾の中等部へ行っていたので、「よし、自分も慶応へ行こう」と決めた。でも、兄が入ったのだから自分も行けると安易に考え、勉強もしないで公園や土手で遊んでいて、親がつけてくれた家庭教師の来訪も無視した。そんなとき、捜しにきて叱りながら家へ連れ戻したのが、祖母だ。ここに立てば、その光景が目に浮かぶ。

 西澤さんが『源流』として選んだのは、祖母から聞いた言葉だ。北千住で一緒に暮らし、町工場の経営で多忙だった両親の代わりに世話をしてくれた。祖父は幼いときに亡くなったが、はる乃さんは高校2年のときまで存命した。小学校に入ったころは70歳くらいで、ずっと「おばあちゃん」と呼んでいた。

 言葉の一つが「寝るは極楽、起きるは地獄、仕事をするのは火の車」だ。祖母はこれを口にした後、「大人になったら仕事をするようになるけど、仕事というのは、火のついた荷車を引っ張るぐらいつらく大変なものなんだ。だから、辛抱、努力して、とにかく一生懸命やるんだよ」と添えた。子どもにとって「火の車」という言葉が恐ろしくて、記憶に残る。

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