「人間は考える葦」と言ったのは哲学者だが、「人間の体は皮袋」と言ったのは、漢方薬局の先生である。なるほど、と思わず頷く。柔らかな皮袋に、入れては出す。入れては出す。そのシンプルな反復を、人間は生涯繰り返す。しかし、基本は単純でも、そこに生まれ持った体質やライフスタイル、生活環境や時代の変化といった要素が絡まると、時に皮袋も厄介なことになる。群ようこさんの場合、それは原因不明のめまいという形で現れた。

 本書は、作者・群ようこさん自身の漢方ライフを描くものだ。突然のめまい、という穏やかならざる事態から端を発するとはいえ、「闘病記」のような劇的なことは何もない。日々生薬を煎じ、痛いマッサージを受け、おやつのまんじゅうの数に思い悩む、という感じ。砂時計がさらさらと落ちるような日々に派手なアクションはないけれど、読み進めるうちにこちらの心も安らかになってくる。

 それにしても漢方とは、近寄り難い隣人みたいだ。しょっちゅう街で見かけるわりに、直接はよく知らない。『半夏瀉心湯』などという読み方すら不明の薬名も相まって、勝手にミステリアスな人、という印象を持っている。

 初めて群さんがその漢方薬局を訪ねた時、先生はいきなり「(あなたは)甘い物が好きですね」と占い師のように告げる。それは、ズバリ当たっていた。群さんはまんじゅう6個を一気食いするほどの甘党。しかし、それがどうしたのか? 先生いわく、群さんはもともと「水はけの悪い体質」。つまり、水分が排出されにくい体なのだ。その上、砂糖は水分を吸収するので、どんどん体に水を溜め込む。砂糖が詰まった皮袋には今や水がとっぷりと貯蔵され、ついに水位が頭に達してクラクラを引き起こしているとの見立て。というわけで、すぐに水抜きの施術と体質改善が始まった。

 もし、これが総合病院だったら、きっと内科や脳外科というように専門医の所に回され、不快な検査を受け、謎めいた数値が並んだ紙を前に「○△症です」と通告される。そして、投薬や手術で一気呵成の回復を目指す。しかし、漢方では体全体を見るので窓口はひとつ、複雑な検査も必要ない。漢方的には、ポイントは『気』、『血』、『水』の三つ。その流れが滞ると、体のバランスが崩れてしまうそうだ。

 このように、漢方による診断はぱーんと明快なわけだが、その後は、ひええと気が遠くなるような日々が始まる。なにしろ相手は「体質」だ。いかにも頑固モノなので、薬だけでは太刀打ちできない。例えば群さんの場合は、まんじゅうの代わりに鶏肉を食べ、パジャマのゴムをゆるめ、合わないブーツを捨て、夜の原稿書きや編み物を控え……など努力は生活のあらゆる場面におよぶ。さらに厄介なのは、バランスが整い始めると、今度は体がやけに敏感になること。ちょっとまんじゅうを食べ過ぎただけでも、すぐに体が警報を発し、具合が悪くなる。それは、『体内にこうるさい小姑が住み着いたみたい』。そうやって小姑に小突かれながら、徐々に無理をしない「ゆるい生活」になっていく。「ゆるい生活」って響きは極楽そうなのに、毎日ゆるりと生きるのは、けっこう難しそうだ。

 先生と群さんは、マッサージの合間にペチャクチャとおしゃべりをしている。その会話は、室内劇のように小気味よく、いうなれば漢方というレンズを通して、現代社会を見ているかのよう。薬局には、痩せたい人や不妊で悩む女性を始め、子どもを受験に合格させたいという親子まで訪れる。受験に漢方もへったくれもないだろうと思うのだが、そんな時は良く眠れて集中力が続く薬を調合するというので、先生、さすがです。そして二人は、街の社会現象も漢方的レンズで分析する。例えばサッカーの試合の後、繁華街で大騒ぎする若者は、「滞った気を発散させている」そうだ。ほんわかしたおしゃべりを通じて漢方の真理に触れられることも、本書の大きな魅力だろう。

 ふむふむ、なるほど、そういうことか! こうして、葛根湯と生薬の違いもロクに知らなかった私でさえ、漢方という名の隣人とお知り合いになれた気がしてくる。勇気を出して隣のドアをノックしてみようか、厳しいけど中身は優しそうな人だな、と思い始めているのだ。

 実は以前私も、ある鍼灸院で群さんと同じような経験がある。顔を合わせたばかりの中国人の先生に、「あら、アナタ、オベントウの食べ過ぎデス!」と叱られたのだ。これには、たまげた。なにしろ当時の私は激務で、一日に二食もできあいの弁当ですませていたのである。あれは、すでに10年以上前のこと。ああ、きっと今や私の皮袋にはいろいろなモノが溜まっているに違いない。水か、血か、気か。はたまた、すさまじい食品添加物か。気になって仕方がない。それは、神ではなく、漢方の先生が知っている。