作家・室井佑月さんは、連載「しがみつく女」が始まったときのことを振り返り、「寛容な社会」が実現するために人々がするべきことを訴える。
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今回でこのコラムも最終回となります。今まで私を支えてくださった読者のみなさま、本当にありがとうございました。
14年前、連載を依頼されたとき、私は当時の編集長であった山口一臣さんからこういわれました。
「女性らしい目線で、社会問題をしっかり見つめて欲しい」と。
今の時代であったら、「女性らしいってなんだよ」とそのような発言はNGなのだろうか?
が、私にはそのときの編集長の考えはしっかり伝わった。当時の執筆陣は男性が多かったので、違いを見せろ、というのもあったろう。けど、それだけじゃなかったと思う。私には編集長の言葉はこう聞こえた。
──社会問題をざっくり捉え指南するようなコラムではなく、ニュースを読んでみんなが心に引っかからなかった部分にも光を当てることができたらいい。女性らしい心配りで──そう私はいわれたような気がした(ような、というのははっきり確認しなかったからだ。山口さん、間違っていたら、ごめんなさい)。
女であるということは、私の根底にしっかりと根付いている。ものを考える上で、いいや、生きていく上で、自分の性を切り離すことは、私にはできない。
もちろん私は、心からジェンダー平等を願っている。その上で、正直にいわせてもらうが、ジェンダー差はあると思う。だから、良いのだ。
寛容な社会とは、自分とは違った人間を受け入れるということじゃないか。自分とは考え方も生き方も違う、逆の性の人と番(つが)い家族になる。自分たちとは違う、同性同士のペアの隣人を理解する。文化や見た目が違う国の人たちとも仲間になる。年齢が離れた人たちを、敵認定したりしない。
そんなに難しいことなのか? 私たちはたまたまおなじ時代に生きる仲間じゃないか。