政治学者の姜尚中さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、政治学的視点からアプローチします。
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ロシアが占領するウクライナ南部で決壊したカホウカ・ダム。広範囲の農地が洪水に見舞われ、70万以上の人々が飲み水不足に陥っているとのことです。ウクライナは今、反転攻勢を進めていると言われますが、その犠牲者は夥(おびただ)しい数に上っており、ダム決壊という新しい事態でウクライナという国そのものが消失の危機に立たされるかもしれません。これで思い出すのは、湾岸戦争時の重油まみれとなった水鳥たちの写真です。後にフェイクと判明しますが、この写真が世界中で報道されるや否や、一挙に湾岸戦争の事態が変わりました。今回のカホウカ・ダムの決壊も、そういう大きな流れの分岐点になるのかもしれません。
そこで改めて思いあたるのは、70年にわたって戦争が凍結されたままの朝鮮戦争の休戦協定です。ちょうど6月25日は、朝鮮戦争勃発の日ですが、その3年後の1953年7月27日に休戦協定が結ばれました。戦時下、マッカーサーは、北朝鮮への兵站(へいたん)を断つべく朝鮮半島の周辺地域への核攻撃を当時のトルーマン大統領に進言していました。この問題はこじれて、マッカーサーは辞任を強いられたわけですが、もし核が使われていたら、韓国の再建もおぼつかなかったでしょう。韓国の李承晩(イスンマン)大統領は休戦協定への署名を拒みましたが、米中朝の署名で協定は締結され、韓国は著しい経済発展を遂げました。ならば、ウクライナも韓国のように休戦を通じて復旧、復興、再建、成長の道を歩み、たとえロシアとの緊張下にあっても国が豊かになる可能性はあるはずです。戦略的な確信もないまま、膨大な犠牲をウクライナに強いることは「反戦平和」の論理と真逆にならないでしょうか。そんな非難はロシアに言えと反論があるかもしれません。でも、そう反論する人たちに、どれだけウクライナの人々が死ねばロシアが音を上げ、ウクライナが勝利するのかと問えば、きっと言葉を濁さざるをえないはずです。
兵器援助を続け、マントラのように「ウクライナ、がんばれ」と唱えるだけでは、悲劇が重ねられていくだけであることを、そろそろ悟る時ではないでしょうか。朝鮮戦争の休戦協定はヒントになりうるはずです。
◎姜尚中(カン・サンジュン)/1950年熊本市生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了後、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授などを経て、現在東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長兼理事長。専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍
※AERA 2023年6月26日号