普段から多くの人々が利用し、日本の発展を支えている鉄道。市井の人々にとって日常のものではあるが、日本の歴史に深く関わることも。政治学者であり、鉄道をこよなく愛する原武史さんの新著『歴史のダイヤグラム<2号車> 鉄路に刻まれた、この国のドラマ』(朝日新書)では、鉄道と人物とが交差する不思議な物語が明かされている。同書から一部を抜粋、再編集し、紹介する。
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■皇太子夫妻のハネムーン
一九〇〇(明治三三)年七月二五日、上野発日光ゆきの臨時列車に、結婚したばかりの皇太子嘉仁(後の大正天皇)と同妃節子(さだこ、後の貞明皇后)が乗った。目的地は完成間もない日光田母沢(たもざわ)御用邸だった。
しかし、このハネムーンには当初から不穏な空気が漂っていた。嘉仁は節子に洋風の旅行服を着せようとしたところ、節子が嫌がった。結局、上野駅までは通常の服装で行き、車内で旅行服に着替えることで落着したが、同行者は「妃殿下の御服装御みすぼらしく」感じたという(『佐佐木高行日記 かざしの桜』)。
日光田母沢御用邸の近くには侯爵鍋島直大(なおひろ)の別邸があった。直大の娘が、皇族の梨本宮守正(もりまさ)王と婚約していた伊都子(いつこ)だった。嘉仁は別邸を訪れ、八月一三日から滞在していた伊都子に会っている。二三日には、伊都子を膝(ひざ)の近くまで寄らせている(小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記』)。
この二日後、節子は単身で日光を発って帰京した。父親の九条道孝が危篤という電報を受けとったためだったが、実際にはそれほど悪い状態ではなく、九月三日に日光に戻っている。嘉仁は八月三一日の誕生日を一人で過ごさざるを得なくなった。
なぜ新婚早々にぎくしゃくした関係が生じたのか。嘉仁にはもともと伏見宮禎子(さちこ)という婚約者がいたが、健康上の理由から婚約が解消され、九条節子に代わった。そこに嘉仁の意思は反映していなかった。社会主義者の山川均は、この結婚を政略によるものと批判する文章を掲載した雑誌の発行責任者として、不敬罪に問われている。