嘉仁と節子に比べると、皇太子裕仁(後の昭和天皇)と久邇宮良子(ながこ、後の香淳皇后)の結婚は難渋した。まず良子の家系に色覚障害の遺伝があるとして、山県有朋らが婚約の辞退を迫る「宮中某重大事件」が起こった。この事件が収まっても、裕仁が新嘗祭(にいなめさい)を行うことが結婚の条件とされたり、関東大震災が起こったりするなどの逆境に見舞われた。それでも裕仁の良子への思いは揺るがなかった。

 二四(大正一三)年八月三日、二人は上野発日光ゆきの臨時列車に乗った。嘉仁、節子と同じハネムーンのように見えたが、日光に行ったのは田母沢御用邸にいた天皇と皇后に会うためで、本来の目的地は別にあった。五日に日光を出た列車は、東北本線と磐越西線を経由し、猪苗代湖畔の天鏡閣(高松宮別邸)に近い福島県の翁島(おきなしま)に着いた。

 東京から翁島は日光よりずっと遠く、天鏡閣のほかにめぼしい別邸もなかった。裕仁と良子はここに滞在しつつ、モーターボートに乗って湖上の月を見たり、裕仁が手綱をとって良子と馬車で散策したりしている(『昭和天皇実録』第四)。苦難の日々のあとには、幸せの絶頂が待っていた。

■戦後初めての御召列車

 一九四五(昭和二〇)年一一月一二日午前8時、昭和天皇を乗せた五両編成の御召(おめし)列車が東京駅を発車した。列車は東海道本線、関西本線、参宮線を経由し、伊勢神宮の下車駅である三重県の山田(現・伊勢市)に向かった。天皇が神宮を参拝するのは外宮(げくう)と内宮(ないくう)の祭神に戦勝を祈願した四二年一二月以来で、今回は「戦争終息」すなわち敗戦を報告するのが目的だった。

 天皇は敗戦後初めて列車に乗って東京の外に出た。沿線の風景は三年前とはすっかり変わり、都市部はほぼ焦土と化していた。列車は途中の静岡、豊橋、四日市で徐行したが、天皇は戦災跡を見ながら「こんなに焼けたのはどこまで続くのか」と尋ねた(『徳川義寛終戦日記』)。

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「これで御召列車も最後ではないか」