すでに連合国軍による占領統治が始まっていた。天皇の処遇がどうなるのかは、まだ誰にもわからなかった。東京から沼津まで乗務した明石孝は、「ひょっとしたらこれで御召列車は最後ではないか」と思ったという(『東京ゲタ電物語』)。
戦前の行幸では、沿線の警備や天皇の護衛は厳重をきわめた。列車が通る駅のホームに入れる資格をもった人々も制限された。ところが今回は天皇自身がそれらをいっさい撤廃するように命じた。敗戦の衝撃がまだ冷めやらなかった当時、警備や規制をなくせば何が起きるかは予想もつかなかった。
列車に同乗した内務大臣の堀切善次郎は警察行政のトップでもあったから、なおさら気が気でなかった。だが実際に目にしたのは、不安を払拭(ふっしょく)する光景だった。
「御召列車が名古屋に着いたときには、熱狂した歓迎の人波が駅頭にあふれ、列車の窓辺まで押し寄せ、その人たちの顔も声も、ただ感激そのものであったのである。(中略)御召列車が伊勢路に近づくにしたがって、田畑を耕作している農村の人々は、鍬をさしあげて“万歳”の歓声をあげる」(『松村謙三 三代回顧録』)
これには同乗していた内大臣の木戸幸一も驚いたようだ。「沿道の奉迎者の奉迎振りは、何等(なんら)の指示を今囘(こんかい)はなさゞりしに不拘(かかわらず)、敬礼の態度等は自然の内に慎(つつしみ)あり、如何(いか)にも日本人の真の姿を見たるが如(ごと)き心地して、大(おおい)に意を強ふしたり」(『木戸幸一日記』下巻)
戦前とは異なり、沿線では奉迎の必要がなかったのに、人々は自発的にホームに集まったり、万歳をしたりした。たとえ天皇の姿が見えなくても、先頭の機関車に日の丸を交差させた列車が走るだけで戦前と同じ光景を再現できたのだ。
天皇の戦争責任を問う声は、どこからも聞こえてこなかった。翌四六年以降、御召列車は全国各地で運転されることになる。
※列車の発着時刻などの表記は算用数字とした
※天皇の乗る専用列車は「お召列車の運転及び警護の取扱いについて」が制定される一九四七(昭和二二)年一〇月まで「御召列車」と表記した